栗野的視点(No.847) 2025年2月2日
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子は親を見て育つのか、親が背中を見せていないのか。
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「親の背を見て子は育つ」という諺がある。もうほとんど死語ではないかと思うぐらい最近は使われなくなったが、原因の1つは親世代にある。
団塊の世代から変った親子関係
親世代、もう少し範囲を狭めれば団塊の世代と言っていいだろう。この世代は新しい価値観を次々に生み出しもしたが、次世代への責任という意味では少し意識が薄かったのではないだろうか。
どちらかといえば自分とその周囲のこと以外にはあまり関心がなく、というか70年前後の挫折(挫折感すら味わっていない者も多いだろうが)の経験から関心は外から内に向かっていった。
会社での出世とか「ニューファミリー」とメディアに持ち上げられ新時代の旗手のように扱われることで新しい価値観に基づく新しい家族像を創り出していると幻想した、というのは言い過ぎだろうか。
もちろん、そうした面は多々あったし、そうした彼らの考え、ライフスタイルが世界で同時代的に生まれ、価値観の変化を生んでいったのも事実だ。
それはファッション(いつの時代も変化はまずファッションに表れる)や家族関係の変化に見られた。
家族(親子)間は従来の縦の関係から横の関係に変わって行った。それは父子関係より母子関係に強く表れ、母親は親子(縦関係)より姉妹(横関係)と見られることを積極的に享受し喜んだ。この関係は今に至るまで続いている。
悪いことではないが、時には共依存(きょういぞん)という関係になり、互いの自立を妨げる面もある。「親離れ」「子離れ」ができないというのも団塊の世代以降に現れた関係だ。
一方、父子関係は母子関係とは少し異なり、従来の雷親父的な部分を拒否し物わかりのいい友達親子を装いはしても、それは新しい家族観というより家庭内で子供と向き合うことを避けたり、多分に外部の目を意識した父親像を演じていたりする。
要は家庭内で父親が果たさなければならない責任を放棄して母親に押し付け、外では友達父子を演じてきた。
物わかりのいい父親は子供の言うことを何でも聞く父親ではないはず。「モーゼの十戒」ではないが、してはいけないことや社会のルールを、子供から嫌われてもきちんと教えることのはずだが、それができない、やらない。
子供は知らないことはできないが、教えてもらえば分かる。サルの集団でも、リーダーの叱責で集団のルールを覚えていくことは知られている。それに従えないサルは集団から離れハグレ猿として1匹で生きていかざるを得ない。
だが現代人は親子ともにそこまで非情になれない。結局、親は真の意味で突き放すことはできず、子も「家族」という巣の中から出て一人生きていく覚悟もなく、互いにズルズルとした関係を引きずっていく。サルでもできるどころか、サルにも劣る、だ。
「親の背を見て子は育つ」といっても親(特に父親)がこんな感じだから背がぼやけている。はっきり見えなければ進むべき方向、見習うべきものが見えない。きっちり北を指さずに揺れ動く羅針盤を見ているようなものだから、船はどちらの方向に進めばいいのか、今進んでいる方向でいいのかどうかさえ分からない。
これでは「船長」も機関士も船を導くことができない。不正確な羅針盤、的確性を欠いた船長の指示で目的地を目指せと言う方が無理だ。それが今の日本社会。
団塊の世代の子供、団塊ジュニュアはすでに40代半ば前後になっている。孔子に言わせれば「40にして迷わず」の年代である。だが今は8掛け人生。40×0.8=32歳とすれば「三十にして立つ」だ。
孔子が言う「三十にして立つ」は「独立=起業」のことではない。社会的に自立するという意味であり、単に起業することではない。それすら分かっていない40代が多いが。
(2)に続く
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