吉岡家の生業は「憲法染め」
ところで佐々木小次郎の年齢である。なぜ小次郎は18歳の青年なのか。そのことに疑問を抱いた人がどれだけいるだろうか。
武蔵と対峙した小次郎は50歳前後というのが実像に近いようだが、「吉川武蔵」ではそれは困る。小次郎は青年である必要があった。
そのほかにも事実ではなく、フィクションがいくつか仕組まれているが、それらはいずれも小説がヒットするための必要条件であり、それが仕組まれたために「吉川武蔵」が多くの人を惹き付け、歓迎されたともいえる。
今風の言い方をすればフェイクニュース、フィクションがリアルと思い込まれSNSで拡散し、ファンを獲得していき「トゥルー(真実)」へと変化していっているのだ。
ところで小次郎の年齢は本当に18歳と若かったのか。
そのことを見る前に吉川英治が「武蔵」で仕組んだいくつかの「必要条件」を紹介しておこう。
吉岡清十郎に戦いを挑んだ時、武蔵は21歳の若者で、吉岡清十郎は「扶桑一の兵法者」だった。
「扶桑一の兵法者」というのは「扶桑」とは日本のことであり日本一の兵法者ということだが、当時すでに室町幕府は実質崩壊。群雄割拠の時代であり、室町幕府によって贈られたこの称号、今風に言えばブランドはすでに輝きを失っており、実力を表すものではなかった。
だが「腐っても鯛」と利用したのが青年武蔵で、試合を申し込んだわけで、吉岡としては迷惑至極な話だったに違いないが、曲がりなりにも道場を構えている手前、申し出を受けざるを得なかったのが実情。
その頃、吉岡家は剣法というよりは「憲法染め」という染物稼業の方で稼いでいたから、武蔵の試合申し込みは迷惑千万な話だったが、京中に吹聴されたので無視するわけにはいかない。
選挙戦で他候補を応援したり、選挙演説をSNSで配信し面白がった聴衆を集めるやり方に似ているが、吉岡清十郎の方も名も知れぬ田舎者が名門に無謀にも挑んできたと見くびったのだろう、試合に応じた。
武蔵側の資料「二天記」によれば武蔵の勝ちになっているが、それを示す資料はないし、武蔵自身が書いた「五輪書」には吉岡一門との試合に関することは全く触れられていない。
吉岡側の資料には「引き分けた」と残っており、多分にこちらの方が事実に近いだろう。
(3)に続く
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