移動販売が流通を変える(2)
行商から移動販売車に


行商から移動販売車に

 最近、地方を走ると移動販売車を見かけることが増えたが、移動販売の歴史は古く、戦後まもなくの頃は籠を背負って海の幸を内陸部に、逆に山の幸を海岸部に売りに来ていた人達のことを覚えている人もいるだろう。
 当時は行商と言っていたが、行商先は地方とは限らず、東京へ千葉、茨城辺りから農産物がぎっしり詰まった籠を背負って売りに来ていた人達がいて、その人達専用の「行商専用列車」まで存在した。2013年3月まで京成電鉄が運行していたのだからそう古い話ではない。

 私が子供の頃は鳥取から中国山脈を超えて魚など海の幸を岡山県側の町まで売りに来ていた行商の人がいた。当時はまだ冷蔵庫も普及していない時代で魚は塩漬けのものだったが、たまに生の魚を持って来ることがあり、塩漬けにしてない生の魚という意味で、「今日は無塩(ぶえん)がありますよ」と言って売っていたし、お袋も「今日は無塩だから」と嬉しそうに食卓に並べていたのを思い出す。
 さすがに刺し身には出来なかったし、刺し身を食べたことはないが、塩をまぶしていない無塩の魚は新鮮ということであり、海岸沿いでもない山間の町で生魚を口にできるのは滅多にない時代の記憶である。

 列車を乗り継ぎ、歩いて大きな籠を背負って売りに来ていた行商さんのお陰で海魚を口にすることが出来た。と言っても子供の口に入ることは滅多になく、それらは親父が「そうか今日は無塩か」と言って食べていた記憶があるぐらいで、当時は「ぶえん」が何かも知らなかったが。

 その後、行商はトラックによる移動販売に変わっていったが、まだ移動販売商売が行われているのを見たのは10年余り前、現高梁市吹屋に行った時だった。
 吹屋は中国山脈の麓の町で、昔、ベンガラで栄えた所。今はベンガラ色に染まった町並みを見に観光客が訪れる以外は静かな過疎の町である。

 地方に行き古老を見かけると、私はよく話しかけるが、その時も「パーマ屋」の看板が出ていた家の老婆に「この辺りは店もなさそうですし、日常の買い物はどうされているのですか」と話しかけた。
 ちょうどその時、中型の冷蔵トラックが入って来た。
 「ああしてトラックで売りに来るんですよ。今日は魚ですが、別の日には肉を売りに来るから」
 まだ地方には移動販売が来ていたのだ。ただ、専業で、魚屋は魚だけ、肉屋は肉だけを曜日を変えて売りに来ているようだ。これなら車がない高齢者でもそうそう困ることもなさそうだ、と感じた。

 ついでに移動販売車の魚屋にも話を聞いた。
「どこから来ているんですか」
「鳥取から。でも、もうやめようと考えている」
「やめられるとこの辺りの人は困るんじゃないですか。他の人が来るということは?」
「ないだろうね。ガソリン代も上がっているし、体調もよくないからな」

 たしかに経済効率を考えれば割はよくないだろう。魚の行商販売も「昔から来ているから」引き続き来ているとのことで、少し前から「廃業」を考えていたようだ。
 かくして過疎の地方はどんどん見捨てられ、切り捨てられていく。
                                      (3)に続く


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