権力は簒奪すべし
変化が緩やかな時代のトップは誰でも通用する、というのは言い過ぎだが、多少愚鈍(これも言い過ぎか)な跡継ぎでもそれなりになんとかやっていけるものだ。しっかりしたお守り役、ブレーンが付いていれば。
ところが激動の時代にはそうはいかない。自ら切り開き、成り上がっていく創業者タイプでなければ生き残れない。
後継者育成についてよく「帝王学を学ばせる」というが、「帝王学」とは一体何か。
役職が人を育てるということは確かにある。そのため後継者を分不相応な役職に付けながら育てていく(鍛えていくではない)やり方もあるにはある。
実際この方法はある部分では有効な結果を出している。ただし、周囲や社員がそれで満足しているわけでも、納得しているわけでもない。諦めているだけだ。息子だから仕方ない、と。
率直にいえばこれは不幸である。後継者自身にとっても、社員にとっても。そのことに気付かないような後継者ならいよいよどうしようもない。優秀な社員は見限って離れていくだろう。
温室で育てられた即席栽培のような若い後継者ばかりが増えつつあるのはなんとも嘆かわしいが、その責任は偏に親世代にある。会社の将来を考えればもっと違った選択があったと思うが、結局は肉親の情に負け、愚息と分かりつつも後継者に据える人が多い。その結果はどうか−−。
中国・三国志の時代、蜀の例を見てみよう。
蜀の皇帝は劉備玄徳、息子は劉禅。軍師として名高いゥ葛亮孔明が丞相である。
劉備は死に際してゥ葛亮を呼び、次のように後事を託す。
「もし嗣子輔(たす)くべくんば、これを輔(たす)けよ。もしそれ不才なれば、君自ら取るべし」と。
劉備も人の子、我が子禅に才能がないと知りつつもゥ葛亮に「もし我が子禅が助けるに値する男だと思うなら、どうか禅を盛り立てて欲しい。もし助けるに値しない愚か者だと思うなら、丞相が息子禅に代わって皇帝になり国を治めて欲しい」と遺言をする。
すると諸葛亮答えて曰く。
「臣敢えて股肱の力を尽くし、忠貞の節をいたし、これに継ぐに死をもってせん」
生命ある限り劉禅さまをお助けして忠節を尽くす覚悟です、と諸葛亮に言われ、安心した劉備は「汝、丞相とともに事にあたり、丞相に父のごとく仕えよ」と息子禅宛に詔書を作成している。
なにやら秀吉の最期とダブって見えるが、諸葛亮には家康のような野望がなかったため、この後の展開が180度変わってくる。時代は家康の方がはるかに後だから、家康はこの故事を熟知していたともいえる。
諸葛亮の唯一の弱点だった。泣いて馬謖を斬ったほど軍法に厳しかった彼も劉備の言葉には弱かった。
歴史に「もし」は許されないが、諸葛亮が劉禅に変わって蜀の国王に就いていたら、蜀の未来はもう少し違っていただろう。
しかし、結果は歴史が示す通りで、諸葛亮は「出師の表」を書き、自ら軍を率いて五丈原に出陣し、陣中で亡くなるのである。
先主亡き後、旧臣の取る道は難しい。諸葛亮が五丈原に自ら軍を率いて出陣したのは劉禅に取って代わろうという野心を疑われないためであった可能性も高い。熊本細川藩の阿部一族の乱も、先主亡き後、旧臣の置かれる道を暗示していて考えさせられる。
魏の国のことを考えるなら、諸葛亮は劉禅ではなく自らが国主になるべきだった。
権力の簒奪である。
武田春信(出家して信玄)は父から権力を簒奪し、甲斐の国を治めた人物である。
春信は長男。下に信繁がいた。父信虎は信繁の方を可愛がったようだ。
跡目でもめる原因の一つは大概この辺りにある。だが、それが原因ではない。信虎は行状が悪く、領民に不人気だった。そこで父信虎が戦勝で気分をよくし、隣国駿河へ出かけた隙に関所を封鎖し信虎が帰国できぬようにした。息子によるクーデターである。ただ、このクーデターは領民のためであったため、春信のクーデターを領民は大歓迎したという。
さて、前述したようにいまの時代は安定傾向というより、新興国の台頭が目覚ましく、国際競争が一段と激しくなっているグローバル戦国時代だ。
こういう時代に権力の委譲を待っているような後継者では生き残っていけない。
自ら群雄割拠の世界に出かけ、時代の動きを肌で感じる「たくましさ」こそ求められている。
家康型のバトンタッチが激動の時代に合わないという理由はここである。
武田春信のように権力を自らが簒奪するエネルギーと、意気込みを持たなければグローバル戦国時代を生き抜くのは難しい。
秀吉も劉備も愚息と知りつつ後事を託したが故に、国は滅びた。
グローバル戦国時代に相応しい後継者は親から権力を簒奪するぐらいのエネルギーをもった「信玄型」の人材である。
欲しい物をなんでも与えるのではなく、我が子を千尋の谷に突き落とし、そこから這い上がってくる子のみを育てるライオン的子育てこそいま求められているのではないだろうか。
(5)に続く
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