家康はなぜ2年で政権を委譲したのか
家康は征夷大将軍に任じられた2年後、その職を退き、息子の秀忠に継がせている。
苦労して手に入れた征夷大将軍職だから、しばらくその職に留まるというか、権力の行使をするかと思われたが、わずか2年で退いた。
なぜ、家康は2年しか在職しなかったのか。職を退くことで、何をしようとしたのか。
秀忠が征夷大将軍になると家康は江戸城を秀忠に与え、自らは駿府に引っ込んだ。
企業で言えば、秀忠が代表取締役社長、家康は代表取締役会長。さらに言えば、家康がCEOで、秀忠はCOO。つまり秀忠を中心にした江戸城には新政府の執行権を与え、自らは新政権と離れた場所に拠点を構えたのだ。よく言われる江戸と駿府の二元政治である。
家康はなぜ、このような方法を取ったのか。
1つは政権交代時におけるゴタゴタを防ぎ、権力の継承をスムーズに行うためである。
政権交代に内部紛争は付き物だ。どんなに1枚岩のように思われていた組織でも内紛に近いことは必ず起きる。前社長に近い者と新社長に近い者の間、あるいは新社長に以前から仕えていた者と、最近頭角を現してきた者というふうに。
こうした争い事を防ぐために、征夷大将軍になって2年という早い時期に政権を秀忠に譲ったと思われる。
もう1つは秀忠を中心とした新政権に助走期間を与えるためである。
いくら代表権を持たせたとはいえ家臣団がすぐさま秀忠の言うことを聞くわけではない。やはり前社長の家康の方を見ている。これは仕方がない。秀忠が直接雇用した部下以外は皆、前社長の家康に雇われた者達であり、彼らは前社長に恩義を感じこそすれ、新社長にはなんら恩義を感じていないばかりか、むしろ逆に前社長のために新社長を助けてきているわけだし、実績も部下の方がある場合が多い。
そうなれば前社長の時と同じようには新社長の命令を聞かないだろう。表面上は従っている風を装いながらも、実際には従わなかったり、なにかといば「前社長のやり方はこうだった」と言って反発する。
こうしたことを出来るだけ防ぐには本社を新社長に明け渡すことである。いつまでも会長が本社に居座っていれば社員はどうしてもこの間までの社長である現会長の方にお伺いを立てる。そうなれば社長はお飾りみたいなものだ。
家康の偉さは江戸城を秀忠に譲り、自らが江戸と距離的に離れている駿府に移り住んだだけでなく、古い家臣団も引き連れて移ったことである。
真に権力を委譲するためには体制も新しくする必要がある。
「新しい革袋には新しいワインを入れろ」という言葉があるように、新体制に邪魔なのは古い勢力である。
家康はそういう古い勢力を引き連れて駿府に移ったのである。もちろん、情報伝達やサポート(ご意見番)のために一部は江戸に残しながら。
そうすることで秀忠は自らのブレーン、家臣団を育て、新体制を築いていくことが出来たのである。
システムづくりを優先した家康
3つめは、実はこれこそが家康の真の狙いだったのだが、権力継承システムの周知と確立である。
それまでは下克上の戦国時代。実力があるものがトップにのし上がれた時代である。信長が、秀吉がそのことを証明していた。そして家康が征夷大将軍になった時ですら、次は秀頼に政権を戻すのだろうと多くの武将は考えていた。
ところが、秀忠の征夷大将軍就任はそういう憶測を吹き飛ばしたばかりか、今後は徳川家が将軍職を継いでいくのだという強い意志を諸大名に示したのだ。
それから10年後、大阪夏の陣が終わり、名実共に豊臣政権は滅びる。その直後に武家諸法度、禁中並公家諸法度を発布し、最高権力者は徳川家だということを全国に宣言し、彼らを支配下に置いたのである。
家康にとっては自らが権力を握ること以上に、徳川家が権力を継承していくシステムを作りあげることの方が重要だったのだ。そしてそれはこの時点でほぼなされた。ただ1点を除いて。
(3)に続く
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