規模の大小を問わず、組織にとって後継者の育成とバトンタッチは最大の問題である。それは単に組織にとってのみならず、組織の構成員(企業の場合は社員)にとっても死活問題に繋がりかねないからである。
では、バトンタッチはどのようにするのがいいのか−−。
秀吉はなぜバトンタッチに失敗したか
バトンタッチにはいくつかの方法があり、大別すると次のようになる。
1.秀吉型
2.家康型
3.信玄型
秀吉型とは豊臣秀吉の権力継承方法で、結論からいえば秀吉は権力の継承に失敗し、それがために豊臣政権は短命で終わった。
人間が歴史に学ぶ生き物であれば、失敗した秀吉型の権力継承はしないはずだが、現実にはこのパターンが最も多い。なぜなのか。人間は歴史に学ばない(特に最近の経営者は歴史に学ぼうとする姿勢がない)生き物だからか、それとも・・・。
秀吉の権力委譲は最晩年であり、それは秀吉56歳の時に生まれた秀頼への継承である。結果はよく知られているように、秀吉没後2年で関ヶ原の戦いが起こり、その3年後に徳川家康が征夷大将軍となり豊臣政権は滅びた。
なぜ、秀吉は晩年に至るまで権力を委譲しようとしなかったのか。権力の亡者で、自らが掌握した権力を離そうとしなかったのか。
一つは晩年に至るまで実子に恵まれなかったことがある。
では、それまで一切権力の委譲を考えなかったのかというと必ずしもそうではない。秀吉55歳の時、甥の秀次に関白職を譲り、自らは太閤(前に関白だった人という意味)と称した。この時、豊臣政権は形式上、関白秀次に移ったことになる。
ところが、その後が問題で、1年8か月後に淀殿が秀頼を生んだ。誰しも自分の子供はかわいいものだが、秀吉の場合は年取ってからの子供だっただけによけいだろう。我が子かわいさが甥の秀次と距離を置くことになる。秀吉の場合、その感情が激しく、行動も速かった。わずか1か月後に秀次を訪ね、日本を5分割し、その5分の4を秀次に与えると約束。逆にいえば、誕生間もない秀頼に5分の1を残すという決定をしたわけだ。
秀次には元々多少行状の悪さがあったとはいえ、疑心暗鬼でその行状はさらに悪化する。すると、そのことを盾に秀吉から切腹を命じられたのである。秀頼誕生2年後のことである。しかも、あろうことか秀次の妻妾子女34人を三条河原で処刑したのだから、いくら秀頼かわいさのあまりとはいえ、行き過ぎている。
この史実から我々は何を学ぶのか。
1.息子への盲目的な愛は会社を不幸にする。
2.年老いてから若い愛人に子供を産ませてはいけない。
3.子供は早めに作っておくべきだ。
4.権力にいつまでもしがみつかず、早めに権力を委譲すべき
等々いろいろ学ぶべき点はあるだろう。
歴史に「もしも」はないが、それを承知で敢えていえば、もし秀吉の長子、秀勝が生きていれば、秀吉が没した年には29歳。豊臣政権の行く末も変わったものになっていたかもしれない。そう考えればどこぞの国が権力の継承を急いで進めている理由もよく分かる。
さて、読者の中には、こうした話は過去の歴史上の話で現代ではあり得ないと一笑に付す人がいるかもしれない。果たしてそうか。
息子が20代でまだ若く、ショートリリーフのつもりで弟に、あるいは娘婿を社長にしてみたものの、結局なんだかんだと文句を付けて追い出し、息子を社長にした例は上場企業の中でさえ見られる。それらの中にはうまく行った例もあるが、大半は会社が消えてなくなるか、どこかに吸収合併されている。
(2)に続く
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