47人の赤穂浪士はテロリスト集団(4)
討ち入り参加者は下級武士


討ち入り参加者は下級武士

 リーダーには2つのタイプがある。1つは平時に力を発揮するタイプで、有能な官僚などに多く見られる。もう1つは戦時(異常時)に力を発揮するタイプで、平時には無能と見られていたり目立たない者が多い。
 大石内蔵助は「昼行灯」と揶揄されていたぐらいだから平時には役立たずの家老と見られていたのだろう。ところが、いざ事を起こすという段になると俄然力を発揮しだし、吉良邸襲撃まで持って行ったのだから後者のタイプと言える。

 前者がエリートに多く見られるのに対し、後者はエリートには見られない。言うならはみ出しもの、窓際族、現場叩き上げで、政治家で言えば田中角栄、幕末なら土佐藩の落ちこぼれ坂本龍馬、新選組の近藤勇、薩摩藩の西郷隆盛など、いずれも親の代からエリート政治家、大企業の正社員ではなく小零細企業の社長、下級武士である。
 近藤勇は農民出身、贔屓目に言ってもせいぜい郷士。西郷は藩からの俸祿だけでは生活できるかどうかという下級藩士だ。
 その点、大石内蔵助は代々筆頭家老を務める家柄の出であり、藩のエリート中のエリートの高給取り。因みに大石の石高は1,500石。他の3家老、安井彦右エ門が650石、藤井又左エ門800石、大野九郎兵衛650石に比べ突出して多い。

 これだけの収入がある人間が最終的に死を選ぶテロ行為に走ったのは少し理解し難いところがあるが、吉良邸襲撃までに1年余りの歳月を要していることもあり、案外その辺りに大石の迷いがあったのかもしれない。

 ところで赤穂浪士の目的は当初から吉良邸襲撃、上野介の首打ち取りにあったわけではない。何度か変遷しながら最終的に吉良邸襲撃に至るわけだが、最終目的が決まった後もすんなりと実行に移ってはいない。
 地元赤穂に留まっていた元藩士や各地に散らばり機会を伺っていた元藩士と江戸で待機していた浪士の間では温度差があったし、その差は月日が経つにつれて大きくなっていく。
 襲撃最過激派は堀部安兵衛。彼は何度か大石を急かしているが、その気持は理解できる。
 まず所持金が違う。大石は1,500石という高給取りで、その額は藩内でも突出して多い。対して大半の藩士は扶持(ふち)米取りであり、上級武士の知行取りとは区別されたが、扶持米取りまでが一応武士と見なされていた。

 両者の違いは知行取りが土地と使用人を分け与えられ、土地の年貢米で生活できたのに対し、扶持米取りはそのような土地もなく、藩から俸祿を支給される、今風に言えばサラリーマン。
 因みに赤穂藩の場合、知行取りは140人いたが、その内500石以上の知行持ちはわずかに8人。知行取りと言われても132人は500石未満の中級武士である。その下の階層が扶持米取りで238人。

 この収入格差は大きく、先が見えない時代に不安と不満を募らせるのは抑圧された下層民であるのはいつの時代も変わらない。
 中級の上辺りの武士まではどこかの藩に仕官(再雇用)できる可能性はなきにしもあらずだが、それ以下の武士となればまず他藩に仕官できる可能性はほぼない。
 仮にそうした可能性に巡り合えるにしても、それがいつになるか分からず、その間どうして食いつないでいくのか。

 将来に悲観的になり、自暴自棄にもなるだろう。どうせ未来がないなら、城明け渡しの受け取りに来た使者達と1戦交えて討ち死にするか、使者を前に割腹してみせるのもいいかもしれない。その方がよほど武士らしいではないか。
 家老の大石から今後の計画を打ち明けられた時、彼ら下級武士の多くがそう考えても無理はない。

 上級、中級武士達の多くはそこまで自暴自棄になるほど未来に悲観しているわけではないし、多少の蓄えもあり、ここで死を選ぶ必要はさらさらない。しかし、筆頭家老の大石が言うことにそう無碍に逆らうわけにもいかない。取り敢えず賛意を示しておき、後の趨勢をみて判断することにしよう、と考えていただろう。



 大石は当初、目的を浅野大学によるお家再興に置いていたから、その段階では多数が大石に従う旨を表明していた。しかし、その線は程なくして望み得ないことがはっきりした。そこで城明け渡しに来た使者に恨みを述べて切腹する方針に変更。賛同する者達に会議の席上で誓詞に血判を押すよう求める。

 こういう時、場の雰囲気を決するのは勢いであり、最初に賛同し血判を押す者が速やかに出てくるか。そして我も我もとそれに続く者が5、6人も声を上げれば大体流れは決まる。
 かくして60-70人がその場で血判を押した。大半が下級武士で大石以外の家老や上級武士は入っていない。彼らは退職金を手にして新たな仕官先を探す道を選んだのだが、そのことは責められない。
 客観的に見ても、使者に恨み言を言って腹を切ることに意味は見いだせないだろう。「それは犬死に」と彼らが言ったかどうかは分からないが、現代で言うなら自爆。それも対象となる相手に物理的な被害すら与えないのだから犬死に以外のなにものでもない。
 「武士道とは死ぬことと見つけたり」という葉隠の思想は時代がもう少し下ってからの話だが、その思想が元禄時代にあったとしても、これは犬死に以外のなにものでもなく、同じ死ぬにしてももう少し意味のある死を選びたい。だから誓詞も提出しなければ血判も押さないというのは卑怯者ではない。

 その革命行動や反乱には道理や義があるか。そう問うべきだが「臆したか」「卑怯者」などの誹(そし)りを受けるのが嫌なばかりに、より過激な行動に出るというのはいつの世にもある。
 かくしてというべきか、それでもというべきか、数度に渡る藩士の態度が確かめられ、元禄15年(1702年)8月には血判者が120人にまで増えた。

 ところが最終的な行動に参加した人数は47人。半数以上の人間が何らかの理由で脱落していく。
 これは集団が組織化されていく段階でよく見られる過程であり、特に過激な行動を目指す組織は結束を強めるためにベクトルが内に向かって行く。それに連れて、もう少し緩やかな結束や柔軟な思考、議論を求めていた人間は組織に距離を置き出し、やがて離れて行く。

 離脱者は「臆病者」「不忠臣」「反革命分子」などと称されることが多いが、一概にそうとは言えない事情もある。歴史は常に勝者の歴史であり、敗者、脱落者の視点で書かれたものはほぼないが、再検証すべきである。
 とりわけ赤穂事件は美談化されているが吉良上野介は言われるように悪人か。浅野内匠頭に対し、巷間言われているように意地悪な態度を取り続けたのか。
 こうした前提が崩れれば47人の吉良邸襲撃は全く違ったものになる。義がなければ自分勝手なテロ行為に過ぎないし、大石はテロ集団の親玉ということになる。
 にもかかわらず、なぜ後世、庶民は反権力でもないテロ行為を「忠臣蔵」と持て囃すのか。
 次章ではそこに触れてみたい。
                       (5)に続く


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