47人の赤穂浪士はテロリスト集団(5)
元禄という時代背景


元禄という時代背景が影響

 どう見ても赤穂事件は赤穂浪士の吉良邸「襲撃」事件なのに、赤穂浪士の「討ち入り」と美化されて呼ばれるのはなぜか。

 話は少し横道に逸れるが「大塩平八郎の乱」をご存知だろうか。こちらも当時持て囃されたが、後世に「忠臣蔵」と同程度に持て囃されたり、映像化されたかと言えば「忠臣蔵」の比ではなかった。

 大塩平八郎は大阪町奉行所の与力であり陽明学者で、この点が忠臣蔵の大石内蔵助とは違う。大石が高給取りの富裕層なのに対し大塩平八郎はせいぜい中流。庶民の感覚に近い存在といえるだろう。

 大塩平八郎が挙兵したのは天保8年(1837年)。「天保(てんぽう)」と聞けば「天保の大飢饉」を思い起こす人も多いだろう。江戸時代に起きた未曾有の飢饉で20-30万人の餓死・疫病死者が出たと言われている。
 天保4年から続いた冷害による凶作と飢饉で庶民の生活は困窮していた。米不足は全国で深刻化していたが、商人は米の買い占めを行い米価が高騰。
 ところが大阪町奉行の跡部山城守良弼は餓死者が続出している現状に対して何ら手を打たなかったばかりか、翌年4月予定の新将軍宣下の儀式に備え廻米の命令を江戸表から受けると部下の与力に命じて密かに兵庫で米を買わせ、それを江戸に送るなど米価高騰を招く行為が目に付き、そうしたことに義憤を感じた大塩平八郎が門下生や近在の富農と謀り挙兵。

 大塩の挙兵は計画性、緻密性に欠けていたという欠点はあったが、動機の純粋さ、反権力という点で大石とは異なっている。
 大塩は義憤に駆られての挙兵であり、相手は幕府という権力者であったのに対し、大石ほか赤穂の浪士達は本来向かうべき相手は時の権力者、幕府であるにもかかわらず、相手を吉良上野介という個人に擦り替えている。これこそテロリストの手法であり、巨大な権力に向かえない弱さである。
 にもかかわらず、なぜ庶民は「忠臣蔵」と持て囃したのか。そこには庶民の側にも屈折した感情があった。

 ここで少し思い起こして欲しいのは時の将軍が誰だったかだ。綱吉である。綱吉と言えば即思い浮かぶのが「犬将軍」「生類憐れみの令」であろう。この法令にどれほど庶民が苦しめられたか。
 そこに起きたのが赤穂浪士の吉良邸「討ち入り」である。将軍や幕府に反旗を翻したわけでもないのに庶民が熱中したのは、幕府の裁定が「片手落ち」ではないかという噂。そう流布したのは赤穂藩かそれに近い人間であろうが、内匠頭が即日切腹を命じられたことが「裏になにかある」と思い込ませてしまった。
 こうした疑惑に乗りやすく、信じやすい人間はいつの世でも存在するが、政情不安や政権に対する不満が満ちている時には特に広がりやすい。

 折しも綱吉時代に発せられた政策に「生類憐れみの令」があり、動物の殺傷で島流しなどの処罰を受けた者もおり、庶民の間で窮屈さが増していた。「生類憐れみの令」といっても1つの法令ではなく、綱吉以前から制定されていたものも含めて言われており、生類を憐れみ殺生を禁じるという儒教的な教に基づくもので、その中には捨て子の禁止や病人、高齢者、動物の保護を謳ったものもあり、一概に犬猫等の動物保護だけを謳ったものではなかったようだが、こうした法令は運用が大事で、末端役人が過剰に反応し、本来の目的以上に運用したり、日頃快く思っていない相手に適用、あるいは濡れ衣を着せるという行為は今の世でもしばしば行わている。

 一方、綱吉治世下では武断政治から文治政治への移行が見られ、町人文化が花開いた時代でもある。人形浄瑠璃、浮世草子もこの時代に流行り、町人が新しい題材を求めていた時に発生した「合戦物」で「殿中で刃傷沙汰に及ぶなんておもしれえじゃないか」「吉良邸に浪人共が武装して襲撃したって、殿様の仇を討つためというから、こいつはイマドキ珍しい」と喜ぶような風潮も社会に存在していたのだろう。それは「仮名手本忠臣蔵」が人形浄瑠璃で演じられたことからも分かる。

 最後に吉良邸襲撃後の赤穂浪士の最期に触れておこう。目的を果たした後、奉行所に自首した46人は各藩に分かれてお預けになった後切腹を命じられるが、切腹とは名ばかりで実際には斬首に近い形であったという記録が残っている。武士として扱われたのは大石以下数人のみで、庭筵の上で腹に切腹用の小刀を持って行くや否や介錯人が斬首しているから「ご政道を乱した罪人」扱いである。

 テロリストが行動に及ぶ際は用意周到であるのに対し、義挙や革命行動は概して突発的だ。対象は前者が個人なのに対し、後者は権力という抽象的な存在。これらのことからも大石達は前者であり、大塩平八郎は後者である。


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