47人の赤穂浪士はテロリスト集団(3)
喧嘩両成敗の主張には無理がある


喧嘩両成敗の主張には無理がある

 注目したいのは「忠義」という抽象的なものではなく、経済格差が行動を左右するということであり、その点を以下で見ていきたい。

 ところで討ち入りに参加した浪士は上級、中級、下級武士のいずれが多かったと思われるだろうか。
 討ち入りを指揮したのは筆頭家老の大石内蔵助であり、「忠臣蔵」と言うくらいだから藩主への忠義心が厚い者達の集団のはず。当然、討ち入り参加者は上級武士が最多だろう。
 そう考えられるかもしれないが、実際は違った。金持ち喧嘩せず、という言葉をここで使うのは妥当ではないかもしれないが、裕福な層が無謀な行動に出ることはまずない。失うものがあまりにも大きすぎるからだ。

 過去の歴史からも明らかなように革命に参加するのは下層階級である。富裕層や中級層が行動するのはせいぜい改革、改良までで、革命行動まで起こす者はいない。もちろんゼロではないが、数は圧倒的に少ない。
 なぜなら革命は既存体制を覆す行動であり、それは自らの生活基盤を破壊することに繋がるからだ。そのため富裕層、中級層は実際の行動段階ではそこまで踏み込めず、ある段階から守りに入る。

 内匠頭切腹の報に接した直後の藩全体会議で藩士各層が取る対応にも、そのことが見て取れる。

 藩主生存中ならまだしも藩主はすでにこの世にいないし藩も消滅するというのに、どこに忠義立てをせよというのか。生きていればこそだ。我々にも生活がある。少しぐらいの資金援助をして欲しいと言うなら協力しないことはないが、それより家臣に俸祿、退職金を分け、彼らの身が成り立つようにすることが先だろう。
 これが上・中級武士の本音であろうが、表立ってそのことを口にするのは憚れる故、口を噤(つぐ)み趨勢を見極めようとする。

 さて、藩士を集めた全体会議でまず問題にされたのは事の経緯である。
 イ)なぜ、殿中で刀を抜き、吉良に襲いかかったのか。
 ロ)藩主がそれほどの恨みを抱えていたことを誰も知らなかったのか。
 ハ)刃傷沙汰に及んだのだから処罰を受けるのはやむを得ない。だが切腹罰は重すぎないか。それも当日切腹申し渡しは過去に例を見ないほど迅速だ。果たしてきちんと吟味されたのか。
 ニ)喧嘩両成敗が習わし。相手方の吉良はお咎めなしというのはおかしい。

 侃々諤々の議論がなされるが、こういう場合、口を開くのは上級、中級藩士であり、下級藩士が口を開くことは指示でもなければ通常許されないが、藩存亡の時でもあり、大石が許す。
 幕府の決定を詰(なじ)る声が上がり、早すぎる処分の裏を探る声も出る。片手落ちとも思える幕府の対応を怒り、かくなる上は城明け渡しに来た使者と一戦を交え、城を枕に討ち死にすべし。
 何らかの形で抗議はすべきだと思うが、さすがにそこまではやるのは行き過ぎだ。幕府宛ての建白書を使者に差し出し、藩士全員割腹してみせようではないか。おう、それこそ赤穂武士だ。

 このような意見が怒声を伴って飛び交う。こういう場合支配するのは理性でも論理でもなく声の大きさである。中身は二の次三の次で、太く大きな声の持ち主の意見が通るのは現代でも同じだ。
 客観的事実を判断し、理路整然と意見を述べたりしようものなら「理屈ではない」とか「貴公は殿の無念の死をなんと心得るか」「それでも武士か」と罵られる。
 とりわけ最後の言葉が効く。「それでも武士か!」と一喝されれば、腹を切るのが怖くて色々言っている卑怯者と言われているようで、つい黙ってしまう。
 これはあらゆる集団に共通しており、戦中なら「それでも男か」「それでも日本男子か」と怒鳴られ、革命時なら「それでも革命戦士か」と叱責され、言い返す言葉を失ってしまう。
 1対1ならまだしも、集団になれば理論、理屈より声の大きさが場を支配する。
もう1つは集団心理が大きく作用する、特に日本人は。本音では戦争は嫌だなと思っていても、周囲が皆志願して戦場に赴いたり、特攻に志願すれば自分も、とつい志願してしまう。
 仲間外れになりたくない、自分だけ卑怯者と思われたくないという意識が働くからであり、皆の後に付いて行くというよりは時として率先した行動に出ることがある。だからといってそれが本心ではない。本音のところは「行きたくない」「拒否したい」と思っているのだが、正反対の行動に出てしまうというのはよくある。声の大きさに釣られるように勇ましい言葉を口にする者ほどそういう心理に支配されている。



 城明け渡しは4月中旬と決まっている。それまで何度も会議が開かれ様々な意見が交わされ、表面上は勇ましい意見が勢いを増していく。
 「昼行灯」と揶揄されていても大石家は代々筆頭家老職の家柄であり、内蔵助としても、こういう場合に何もしない訳にはいかない。
 城明け渡しにやってくる幕府の役人宛に3月下旬、手紙を送った。「鬱憤之書付(うっぷんのかきつけ)」がそれで、表書きからも推察できるように家中の者達の鬱憤を代筆した内容になっている。

 そこでは主君の切腹、城地召し上げに対しては「家臣も恐縮」するところと受け入れながら、上野介が内匠頭に切られ死亡したから内匠頭は切腹を申し付けられたと思っていたが、そうではなく吉良は刀傷を負ったぐらいで生きている。しかも上野介に対してお咎めなしとのこと。
 そのことを知り「無骨者で一筋に主人思ひ」の家臣達は「このまま城地を離散するのはしのびないと言っている。主だった家老、年寄りどもが教え諭しても納得しない。吉良さまのお仕置をと願うわけではないが、家中が納得できる筋を立ててくれればありがたい」と縷縷(るる)述べながら、暗に裁定の片手落ちを非難している。

 江戸城内での刃傷沙汰に激しく立腹し、即日切腹を命じたのは将軍綱吉だから裁定に不服があれば批判の矛先は幕府に向かうはずだが、それはない。そうならなかったのは筆頭家老の大石が家臣達の意思を1つの方向に誘導したからだろう。
 では大石達の目標はどこだったのか。岡山藩の密偵による報告によれば「弟大学の閉門が解かれ、浅野家の継続を願うことに力点が置かれている」とのこと。
 藩内過激派の意見は別にして、大石達上級藩士はまずお家継続が第一だった。ただ、それでは納得しない家臣もいたため過激派も穏健派も納得できる折衷案として、藩の方針を次のように決めた。
 1.吉良の処罰を求める
 2.弟君大学による浅野家の再興を望む
 3.それらが叶えられなければ吉良を討ち取り自分達も切腹する。

 吉良の処罰と浅野家再興は同列だが、形式上吉良の処罰を先に持ってくることで過激派にも受け入れられるようにした。穏健派の望みは当初から浅野家の再興であり、1と2は同列番になっているため不満はなく納得できたし、当然そこに落ち着くだろうと考えていた。大多数を占める中間派もこれを見ながら順序の3は過激派を納得させるための方策として挙げられただけで実行されることはないと考えていた。

 だが、冷静に考えれば上記1と3の主張には少し無理がある。喧嘩ではなく内匠頭が一方的に、背後から上野介に切りかかったわけで、この行為の非は浅野側にある。言い合いになった上で切りかかったのとは違い、そこに「喧嘩両成敗」を持ち出すのはおかしく、幕府の裁定にミスはない。
 たしかに処分決定が早すぎたという点はあるが、裁定を片手落ちだと問題にするなら、批判の矛先は幕府に向かわなければならない。
 それが吉良の首級(しるし)を挙げる方向に向かった時点で彼らの行動は反権力ではなく単なるテロであり違法。
 にもかかわらず、なぜ「忠臣」として後生に至るまで持て囃されることになったのか。そのことについてはもう少し後で触れる。
     (4)へ続く


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