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N の 憂 鬱-5
〜遅れてきた文学青年(4)〜


  ◇小説より漱石の逸話に興味を抱く

 入学後、「坊っちゃん」から始まり「三四郎」「それから」「門」と三部作を読み進み「倫敦塔」「夢十夜」「道」「明暗」など、漱石のほぼ全作品を読んだが、印象に残っているのは、どれかの作品というより漱石にまつわる逸話の方だった。
 例えば「門」。朝日新聞の連載小説で、新聞連載小説は前もって作者、題名を告知するのが一般的だが、告知掲載日の前日朝になっても題名が決まってなかった。当然、新聞社からはやいのやいのと催促される。新聞社との窓口になっていたのは弟子の森田草平で、困り果て漱石に題名を尋ねると「君が付けておいてくれ」。そんな無茶な。言われた方は困る。勝手に題名を付けられるわけがない。そこで同じく漱石の弟子の小宮豊隆の下宿を訪ね、二人で頭をひねるが出てくるはずがない。
 もう、こうなりゃあヤケッパチ、と思ったかどうか、小宮が傍らにあったドイツの哲学者ニーチェの「ツァラトゥストラ」を手元に引き寄せ、ページをパッと適当に開き、目に止まったのが「門」という文字だった。
 森田君「門」でどうだい。これなら抽象的だし、どうにでも解釈できるのではないか、などという会話を交わし、先生、「門」という題名はどうでしょうか、と漱石に伝える。分かった、新聞社には「門」だと連絡しておいてくれ。

 こんなやり取りがあって「門」と題名が決まったのだから随分いい加減。いい加減と言えば、漱石は題名にこだわってなかったのか題名を重視していなかったのか、いい加減な付け方をしている。その典型が「それから」で、登場人物の名前こそ違うもののストーリーは「三四郎」のそれからの生き方を書いたものだから「それから」と付けている。
 漱石の方に題名に対するこだわりがなかったとしても、勝手に題名を付けた弟子達の方は気が気ではない。毎朝、朝日新聞の小説欄に目を通すが、一向に「門」と結び付く展開にならない。このまま最後まで内容と題名が合致しなければ自分達の責任問題になると、生きた心地がしなかったのではないだろうか。

 「門」が出てきたのは小説の最終章になってやっと。不安な心を抱えて生きる、主人公の宗助が宗教にすがろうとして禅寺を訪ね、そこで何日か座禅を組んだりの修行をしてはみるものの、熱も入らず、心も晴れないまま、やがて自宅に戻る。
 結局、宗助は自分から働きかけて何かを変えようとするわけではなく、ただ流れに任せて生きるだけで、そんな彼を称して「宗助は門の中に入ることも、かといってそこから立ち去るわけでもなく、ただ門の前で佇むだけだった」(原文通りではない)というような言葉で書いている。
 見事に題名と内容が一致した瞬間だが、この時、漱石は胃潰瘍の悪化に苦しんでいた。そのため「門」は親友の妻を奪い、二人で各地を転々としながらひっそりと暮らしている、いわゆる不倫物でありながら、最後の方で妻、御米(およね)の元夫であり親友だった男が現れるかもしれないという不安に怯え、禅寺の門を叩くのだが、小説的にはクライマックスの盛り上がりがない。
 大体、禅寺を持ってきたところで、どこか人生への諦観があり、無理やり題名の「門」に関連付けようとしたところがある。筆運びが淡々としているのは、この時、漱石自身が患っていたことと無関係ではないだろう。

 漱石は胃潰瘍を患うぐらいで、かなり神経質だったようだ。それが端的に現れているのがイギリス国費留学。せっかくイギリスに留学したものの漱石は下宿からあまり出ず、せいぜい出かけたのは図書館ぐらいだったようで、心配した同じ国費留学生が文部省に手紙だか電報だかを打ち、夏目はノイローロゼになっているようだから帰国させた方がいいと進言している。

 また、ある時、火鉢にあたっていた息子の頭を突然ポカっと殴ったこともある。わけもなく殴られた子供はたまったものではないが、鏡子(きょうこ)夫人から詰問された漱石は息子が火箸で灰をつついている行為で○○(なんと言っていたか忘れた)を思い出し、腹が立ったと言うのだから、これは酷すぎる。

 鏡子夫人といえばソクラテス夫人と並び称される「悪妻」らしい。なぜ、彼女は「悪妻」と称せられたのか。それは「夢十夜」と関係している。
 漱石が大病を患い、その間のことを短編に記したのが「夢十夜」だが、病み上がりにもかかわらず、漱石が病に伏している間に見た夢や、その間の出来事を短編に書き発表したのは、鏡子夫人から「あなた、明日食べるお米がない」とせっつかれたからだという話が「英語青年」に載っていた。
 物事をはっきり言う性格だったのは間違いないようで、弟子達が恐れ、そのように言ったらしく、実のところ世にいう悪妻だったかどうかは不明だ。
 ソクラテスの妻にしろ鏡子夫人にしろ、世に悪妻と言われる妻が偉人を育てたのだけは間違いない。ただソクラテスの妻クサンティッペ(Xanthippe)は英語辞書に「がみがみ女」、悪妻の代名詞として載っているほどだから、かなりのものだったようだ。ソクラテスの弟子が自著で「人前で夫に頭から水を浴びせたりし、現在は言うに及ばず過去にも未来にもこれほど耐え難い女はいないだろう」酷評している。ソクラテス自身もそのことは認めていたようで「よい妻を持てば幸せになれる。悪い妻を持てば私のように哲学者になれる」と言っている。
 哲学を専攻し哲学者を目指したが哲学者になれなかった私は悪妻を持たなかったからのようだ。

 こうした逸話の大半は当時発行されていた「英語青年」という月刊誌の「漱石特集号」で得たものだが、神経質で人付き合いが悪く、意固地で意地悪な性格などにどこか父や自分と似たところを感じ、親近感さえ覚えていた。

 その一方で真似できないと思ったのがウィットのセンス。漱石が東京大学で英文学を教えるようになった時のこと。当時は着物姿の学生がほとんどで、中に一人、片手を袖の中に入れて講義を聴いている学生がいた。その態度に我慢ならなかったのだろう。漱石先生、教壇を降りてその学生の前にツカツカと歩み寄り「失礼ではないか。片手を袖に入れたまま聴く君のその態度は」と叱責した。
 当の学生は何も言わず、顔を赤らめ俯いたままでいた。それを見た傍らの学生が「夏目先生、彼は隻腕なのです」と本人に代わり事情を説明。それを聞いた漱石先生はすかさず「私もない頭を出して話しているのだから、君もない手を出して聞き給え」と切り返し、その場をうまく収めた。
 この辺りのウィットに富んだ切り返しはさすが英国仕込みと感心するが、国費留学でイギリスに行きながらほとんど大学には出ず下宿と図書館に籠もり、ノイローゼにかかっているから早く帰国させた方がいいと文部省に進言された漱石に英国仕込みはないだろうと思ったりもした。

 ウィットに富んだ面がある一方で、自分の仕事は真面目に取り組もうとしていたようだが、生真面目に講義すればするほど英文学の授業内容は面白くなかったらしい。
 漱石にしてみれば真面目に勉強しない人間は許せないし、そこに田舎モノ嫌いが重なり、四国の旧制中学から九州の旧制高校(今の大学)に転勤が決まった時に全学生を前にした挨拶で「君達ほど勉強しない学生は知らない。これでお別れかと思うと清々する」と言ってのけたが、それは恐らく本音だろう。
 四国より九州が都会ではなく、せいぜい旧制中学(今の高校)生から旧制高校(今の大学)生へと教える相手の年齢が少し上がるぐらいで、言葉の訛りはもっときつくなりコミュニケーションはより取りにくくなるかも知れないが、漱石先生は一日でも早く今いる環境から抜け出したかったのかも知れない。
 それから何十年か後、Nは漱石の軌跡を追うように四国から九州に渡るのだから「袖振り合うも多生の縁」があったのかもしれない。
                             (次回に続く)
 


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