Kurino's Novel-6
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Nの憂鬱〜学生服とアスコットタイ
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▽大学再受験を目指す
大学に入学はしたものの喜びも開放感もなかった。希望大学ではなかったということもあるかもしれないが、それ以上に大学に華やかさがなかった。
当時の国立大学は一期校と二期校に分かれ、一期校の試験は3月上旬、二期校は3月下旬に実施されたため、志望校を国立大一本に絞っても受験チャンスは二度あることになる。
これは国立大進学希望者救済の制度としてはよく考えられていたが、そのことは同時に大学の格付けにも繋がり、先に試験を実施する一期校の方が格上と見られる風潮が生まれたのは当然で、いくら機会が二度あるといっても敢えて二度も受験しようと思う人間は少ない。できれば受験は一度、それも先に受けた大学の合格が決まれば、その段階で受験は終わりにしたいとほとんどの受験生が思うだろう。
それ故、誰もが先に行われる試験に力を入れ、そこで合格すれば二度目の受験はなしにする。かくして先に試験を実施した一期校の方に優秀な学生が集まるのは自然の理だ。
そこに持ってきて旧帝大はすべて一期校に分類され、戦後の学制改革で新設された新制国立大学の多くは二期校に分類されたからなおのことだ。
大宅壮一氏は新制国立大学を称して「駅弁大学」と揶揄したが、彼は命名の天才でTV時代の幕開けに伴い「一億総白痴時代」と称するなど本質を突いていた。
それはさておき、一県一国立大学が設立されたことで大学への門戸が広く開かれ、戦後生まれのベビーブーマーが大挙して大学へ雪崩込み、学問することができるようになったのだから、食べやすい駅弁も悪くはないばかりか、後に各駅毎に駅弁の中身に工夫を加えたり、地方の特産物を使ったり味付けを工夫したりしながら独自色を出し、競っていくのだから「駅弁」もバカにされたものではないが、設立当初は中身が伴わず、旧帝大は別にしても一期校と差が付けられていったのは事実だ。
とはいえ制度の不十分さに教授陣の不足も加わり、授業の質の不均衡さが生まれ、同じ学生でも入学した大学によって学問レベルに差が付いたのは不公平だったし、学問に燃える学生にとっては不幸だった。特に地方の大学ほど、その傾向が強かったといえる。
漱石によって「マッチ箱のような」と称されたのは電車だけでなく、街も、大学も学生も、すべてがこじんまりとまとまっていた。
そんなキャンパスと言うより校庭という表現の方がピッタリきそうな学内で、グランド側のベンチに腰掛けながら、野球部の練習をぼんやりと眺めていた。
別に「キャンパス」という言葉で想像する何かがあったわけでも、何かを期待していたわけでもない。入学後、半年近くの間は再受験しか頭になく、居場所は下宿と教室と図書室の三箇所のいずれかで、それ以外の場所を知る必要も感じていなかったから、キャンパスがマッチ箱程度の広さであっても、銀杏並木がなくても、そういうことはどうでもよかったが、こじんまりとまとまったキャンパスは四畳半生活のようで、便利ではあるが面白さや華やかさは感じられなかった。
男子学生も女子学生も総じて平均的で、おとなしく真面目そうに見え、地元の人からは「学生さん」と親しみを込めて呼ばれる存在で、「坊っちゃん」の世界は昔の小説の中の出来事であり「イガラシ」のような型破りの先生も、蚊帳の中にバッタを入れて坊っちゃんを歓迎したイタズラ好きな学生もいず、せいぜい白いブラウス姿の女子学生達が「マドンナ」を彷彿とさせるぐらいだった。
▽高下駄男と風呂敷男に放送研
そんな中で目に付いたのが高下駄に白いワイシャツ姿で校門を入ってくる背が高い男と、同じく白のワイシャツ姿で風呂敷を下げ、腰を上下に揺らしながら多少ガニ股気味で歩く痩せた男が多少バンカラを感じさせた程度だが、華があったのはグリーンのアスコットタイを締めた、見るからに女子学生に持てそうな背の高い男ぐらいだった。
男の目から見ても爽やかでカッコよかった彼は放送研究会の三回生らしいと耳にしたが、高下駄姿のバンカラ男は文乙の卒業生で司法試験浪人生。風呂敷包みを下げている男も文乙経済専攻の研究生で、風呂敷包みの中は本らしかった。当時、その大学の文系学部は文甲と文乙に分かれ、文乙が経済と法律専攻。その他が文甲という形に分かれていた。
高下駄男も風呂敷男もともに研究生で、卒業後一年間は研究生として大学に残れる制度があることを彼らによって知った。「高下駄」は見るからにバンカラで、腰に手ぬぐいでもぶら下げていれば「坊っちゃん」の世界そのままだったが、「風呂敷」の方はバンカラというより書生っぽかった。大学院に進むために研究生として残り勉強しているらしかった。
そんな二人に比べ唯一、都会育ちの華やかさを感じさせたのが、学部は知らないが放送研のジャケットにアスコットタイ姿の男だが、学内で見かけたのは二、三回しかないから、三回生ではなく四回生だったのかもしれない。
都会のニオイを感じさせたのは「放送研」ぐらいで、Yは大阪、といっても河内長野出身だから都会とは言えないが、高校の頃は梅田辺りで遊んでいたという割には学生服を着たりして地元に溶け込んでいたのは少々意外だったが、もともと髭が濃くて分厚い唇をしたおっさん顔だったから、腰に手ぬぐいをぶら下げて学帽を被り、学生服のボタンを上から二つぐらい外し、ブックバンドで縛った本を肩から下げて歩けば余程絵になったと思うが、そういうオシャレさはなかったようだ。
(6-2)に続く
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