Kurino's Novel-2
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Nの憂鬱〜鳥になった日(2)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 彼女の姿が消え、今度は高校時代の友達の自転車に載っている光景が現れた。
「学生服を着なきゃあダメだぞ」
友達は自転車を漕ぎながら後ろに乗っているNに諭すように話しかけた。
「ジャケットなんか着ているのは不良ばかりだよ」
その日は大学の入学式で、友達はNを少し離れた学部まで自転車で送ってくれていた。高校時代は同じ学年だったが、Nが一浪して入学したので、大学では彼が一年先輩だった。
入学式だから敢えてそう言ったのかどうか分からなかったが、その日のNの服装はジャケットに赤いアスコットタイという格好だった。学生服は高校を卒業してから一度も着たことがなかった。予備校は私服だったし、第一、襟カラーが首を締め付け苦しく、どこか束縛されているようで嫌いだった。
今度は不意に予備校の玄関前の光景が浮かんだ。皆が何かを取り囲でいた。円の中心には一人の男が寝転び、時折り何か言葉を発している。それは独り言のようでもあり、酒でも飲んで酔っ払っているようでもあった。
「君達に言っておく。O県の理科大には行くなよ。ロクな大学ではない。あんな所に行ってはダメだ」
取り巻きながら見ている予備校生達の肩越しに男の顔を覗き込んでみた。酔っ払いと思ったのは予備校で数学を教えている背の高い講師だった。O県の理科大は前年かそこらに開学された新設の大学で、講師はその大学でも数学を教えていた。
校舎の四階から飛び降りたらしい。何人かがひそひそと話をしていた。Nがその光景を見たのは昼食から帰ってきた時だから、午前中の授業を終えた直後に教室の窓から飛び降りたのだろう。授業中に何かあったのかと思ったが、思いを巡らしても分かるはずなどなかった。
事務員達が話していたのは、勤務先の理科大で何かあったらしいという程度で、それ以上のことは分からなかったし、予備校関係者も自分達には関係ないと分かり、それっきり噂も聞かなくなったが、それは数日後のことだ。
取り巻いている見物者の中に事務関係者の顔も数人見えたが、誰もが取り巻いているだけで、講師の側に付き添い、介抱をしている者は誰もいなかった。皆、取り巻いて見ているだけだ。誰か救急車を呼んだのか、呼ばなくていいのか。皆の態度が腹立たしかった。
「痛い!」「救急車はまだ来ないのか」
先程まで聴衆相手に訓示を垂れていた講師が叫んだ。 その叫びを聞いて、なにか釈然としない気持ちを抱いた。自殺するつもりで飛び降りたのに、救急車を呼べというのはどこか矛盾していると感じたのだ。同時に人は中々死ねないものだなとも思った。
田舎の祖母が店の奥で火鉢を前に座り店番している姿が浮かんだ。
「おばあちゃん。皆、腕時計をしているし、ぼくも欲しいんだけど」
「仕方がないね。前の時計屋に行って、いくらするのか見てきなさい」
当時、時計はまだ高価なもので、結構高かったと思うが、「その代わりしっかり勉強するんだよ」と言って、祖母はセイコーの腕時計を高校の入学祝いに買ってくれた。
そう言えば、高価なものはいつも祖母にねだって買ってもらっていた。
そんな光景が次から次へと目の前を過っていったが、それらは地球の自転を自覚しているわずかな間に見た記憶の映像だった。
頭の上の方で人の声がする。誰かが抱きかかえてくれているのだろう、肌の温もりが伝わってきた。その感触から抱きかかえてくれたのは女性、それも若い女性ではなく、もう少し年配の、恐らく三〇代の女性事務員ではないのか、と感じた。
遠くで救急車のサイレンが聞こえる。大学の前が日赤病院なのに救急車が来るのに随分と時間がかかるものだ。薄れ行く意識の中でそんなことをぼんやりと考えていた。
「大変な目に遭ったね。校舎の二階から落ちたんだって。後少しずれていたら危なかったらしいよ。片方には花壇の大きな石があったし、もう少し校舎に近ければテラスの上だからね。運よく土の上に落ちたからよかったけど、何をしてたの」
男が二人、病室のベッド脇の小椅子を引き寄せて座り、笑みを浮かべていた。
「これ、お見舞い。早く元気になってもらおうと思って」
手にぶら下げた紙袋を差し出しながら袋の口を少し開け、中が見えるように、こちらに向けた。バナナが入っていた。
「縄梯子で降りようとしていたんだって。どうして縄梯子などで。一階の出入り口は塞いでいたのかな」
笑顔に親しみを込め、優しい物言いをする二人の男に見覚えはなかった。
「中には何人ぐらいいるの」
やっと男達は本来の目的を口にした。怪我の見舞いに来たわけではない、とは分かっていたが、見舞いにかこつけて情報収集に来たのだった。
Nが何も喋らないのでしばらくして男達は帰っていったが、あの様子では退院するまでにまた来そうな気がした。
(次回に続く)
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