Kurino's Novel-2
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Nの憂鬱〜鳥になった日
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◇鳥になった日
窓から見える空は小さかった。それでも晴れているか曇っているかぐらいは、差し込んでくる光の強さで分かった。
初めてこの部屋に来た時、何も楽しみがないだろうと同情したのか、部屋の奥まで入り込み、話しかけてきた陽の光もいまではほんの少ししか入り込んでこなくなった。季節が秋から冬、そして春へと移ってきたのだ。
窓の外には目隠しがわりの板が取り付けられ、外界との一切の接触を遮断していた。板は斜めに取り付けられていたから、空の一部だけは見え、外の様子をほんの少し窺い知ることが出来た。そこから得る情報で「今日は雨か」「寒いと思ったら雪が降っている」などと外の変化を知るのだった。
ここでの1日は毎日規則正しく繰り返された。起床ラッパこそ鳴らないものの、毎朝「起床!」というスピーカーの声で起こされ、歯磨き、洗顔を済ませると、遠くからガチャガチャという音と扉を開け閉めする音が廊下に響いてくる。その音が近づいて来ると、入口の方を向いて正座して待つのだ。
部屋の扉が開けられ、「番号!」という声に続いて「〇〇番!」と応える声が隣で聞こえる。次は自分の部屋の扉が開き、「番号!」「〇〇番!」と同じやり取りが繰り返される。
ここでは誰もが名前をなくし、代わりに番号を付けられ、すべては番号で呼ばれる。まるでモノかロボットのように。当然、人格も人権もここではない。
朝の点呼が終わると次はオマルを部屋の外に出す。桶の中に瓶が入っており、その上に蓋をしただけのものだが、中央付近に直径15cm程の小さな穴が開いている。
この部屋に移った最初、隅に置かれた桶が何なのか、どうして使うのか分からなかったが、蓋を開けてみて納得した。用足しに使うものだと。
洋式トイレなど見たことも使ったこともなかったが、蓋の上に上がってしゃがむには不安定すぎたし、うまく穴の中に落下させられるかどうか不安だった。結局、腰掛けて使うのだろうと考え、腰掛けてみるとちょうど尻の所が穴の上に来るようにできていた。
なる程そういうことかと一人納得したが、問題は小の方だ。その小さい穴の中にうまく放尿するのはちょっと難しかった。立ったままだと距離がありすぎ、穴の周囲にかかってしまう。中腰になって距離を近づければ、なんとか周囲を汚さずにすることができたが、この姿勢は疲れる。結局蓋を全部取り、瓶の中に放つことにした。
朝食が終われば昼食まで何もすることがない。かといって寝転んだり横になるわけにはいかない。そんな姿を見つかればすぐに罵声が飛んでくる。多くの時間は本を読んで過ごしていたが、座ってばかりはいられないので、見回りの目を盗んで室内を歩き回ったり、腕立て伏せなどをして少しでも身体が鈍るのを防ごうとした。といっても部屋の広さは畳2枚ほどしかないが。
とにかくここでは毎日が規則正しいルーチンワークで行われた。今日は昨日と同じだし、明日も今日と同じで何一つ変わらない。見える景色さえも変らなかった。
いや、それでも小さな変化は毎日起きていた。今日だって、窓の外に雀が一羽来て止まった。だが、内も外も静かだから、雀にしてもうるさく囀りはしない。部屋にいる住人に倣ったのか、それとも中の住人を気遣っているのか、控えめにチュンチュンと二度ほど鳴いた後はじっと止まっていた。
そういえば、あの日も鳥が空に止まっていた。空に止まるというのは変だが、もしかすると飛んでいたのかもしれないが、止まっているように見えた。あの鳥は何という鳥だったのだろう。雀でないのは確かだ。小鳥はあんなに高く飛べない。トンビだろうか。
なんと美しい青空なんだ。いままで空がこんなにきれいだとは気付かなかった。あの鳥のところに行けるだろうか。ふと、そんな思いが頭を過ぎり、宙に浮いている自分の身体が見えた。夢を見ているのかもしれない。
宙に浮いている自分を見ている自分がいた。どちらが本当の自分か分からなかった。見ている自分が本物なら、見られている自分は幻影、夢の中の自分ということになる。宙に浮いている自分が本物なら、その自分を見ている自分は意識ということになる。
そんなことが頭に浮かんだ。だが、青く澄み、どこまでも続く青空を見ていると、そんな事はどうでもよかった。「平和だな〜」。思わず言葉が口を突いて出た。いや、出たわけではない。声は聞こえない。ここは無音の世界。そこに自分だけがポツンといるのだった。
目に映るのはどこまでも青く澄んだ空と鳥。あの鳥のところに行ってみようか。行けるかもしれない。そんな思いが浮かび、両手を前に出し飛行の姿勢に移った、つもりだった。
奇妙なことに鳥は近づくどころか遠ざかっているように見えた。やがて視界から消えた。前へ飛んで行っていると思った身体はゆっくりと後ろに回転していた。それはまるでスローモーションを見ているように、ゆっくり、ゆっくりと後ろに回転していくのだった。そして目に映る景色が変わった。
高校の時から付き合っていた郁代と二人で六甲山の山道を歩いている光景が見えた。二人で初めて出かけたのは京都の嵐山だったが、その時は高校時代の友人も一緒だったから、郁代と二人だけで遠出したのはこの時が初めてだった。帰りの電車の中、向かいのカップルが互いに頭を寄せて眠っていた。
「私にもああして欲しい?」
四人掛けの前の席に座っている二人の姿を見ている視線を感じたのだろう、Nの顔を下から覗き込むように見ながら首をすくめてクスっと笑った。
てっきり右肩に重みを感じると思ったが、いつまで待ってもそうはならなかった。郁代にしてみればNの返事がないので、思い切って言っては見たものの、その後の行動に移すきっかけがなかったのだ。
あの時、ひとこと言いさえすれば。Nは後々までそのことを悔やんだ。
山道を二人で歩いていた。道を外れているのかどうかもよく分からなかったが、ただ黙々と歩いていた。何も聞こえなかった。聞こえるのはドクドクと鳴る心臓の音だけだ。Nは不意に立ち止まり、彼女を抱き寄せた。
もしかすると、そういうこともあるのかと思っていたのか、彼女は抵抗もせず、かといって積極的にというわけでもなく、ただ身を任せるように受け入れた。この時初めて二人は唇を合わせた。
マシュマロのようだ。
ぷっくらとした彼女の唇がやわらかく、ふわっとして、このまま強く吸えばとろけてしまうのではないかと思えた。
その時の感触はいまでも鮮明に思い出されるが、いまに至るも同じ感触を味わったことがなく、それが夢だったのか、それともファーストキスの感傷に過ぎなかったのかさえ定かではない。 (2-2)に続く
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