▽白土三平の唯物史観と出合う
Nは高校受験を控えた中学三年の終わり頃、勉強をしていると、父から今更勉強しても同じ、早く寝ろとか、映画でも観て来いなどと言われていたこともあり、夜は家の近くの貸本屋でよく漫画本を借りて読んでいた。
当時は貸本ブームの頃で、田舎の小さな町だったが、家の近くの店が兼業貸本屋を始めていた。三日に一度ぐらいの頻度でそこから借りて読んでいたのはほとんどが時代物で、白土三平の「忍者武芸帳」は17巻全巻読み、その後「サスケ」も読んだ。月刊漫画雑誌「ガロ」に連載された「カムイ伝」を読んだのはもう少し後のことだ。
中学時代には貸本だけでなく「冒険王」や「少年クラブ」を発行日に書店で求め読んでいたが、印象に残っているのは前谷惟光のロボット兵士を主人公にした「ロボット三等兵」だ。コメディ漫画でありながら、日本軍を皮肉って書いているのは子供心にも分かったし、日中戦争における中国軍が地下道を掘り、穴に潜むゲリラ戦術をとったことをこの漫画で知った。
夢中になって読んだのは白土三平が描く劇画で、ナンセンス漫画やコメディ漫画とは一線を画し、科学的、論理的で、唯物史観がバックに感じられ、忍者物、時代劇、漫画という範疇をはるかに超えていた。
その後、月刊漫画雑誌「ガロ」に「カムイ伝」が連載されると、学生達は白土三平が描く世界に引き込まれていったが、それは「忍者武芸帳」をはじめ「サスケ」「カムイ伝」が反権力で、弱者の側から描いていたものだったからだが、それには白土氏自身の生い立ちや、その後の彼を取り巻く環境が強く影響していると思われる。
白土三平の父親は岡本唐貴という画家で、現在の岡山県倉敷市出身。1929年にプロレタリア美術家同盟の結成に参加し中央委員にもなっているから筋金入りの活動家だったようだ。プロレタリア文学作家として知られる小林多喜二とも親交があり、多喜二同様、特高警察に目を付けられ何度も逮捕されて激しい拷問を受けている。その時に受けた拷問で脊髄を痛め、長期間の闘病生活を余儀なくされた。
特高警察の監視下にあればまともな仕事にもつけないし、一箇所にとどまった静かな生活など望むべきもなく、白土氏も幼少の頃から各地を転々としながら赤貧の生活を送っていたであろうことは容易に想像つく。白土作品に在日朝鮮人や被差別部落といった最下層の人々が取り上げられるのは、そうした地区に居住したり、彼らと親交があったことが少なからず影響していると思われるが、被差別部落や最下層の農民などを漫画で描くことは白土作品以前には考えられず、彼の登場により漫画の概念まで変わってしまったといえる。
これは随分後になって知ったことだが、「カムイ伝」以後の作品は白土三平がプロットを書き、弟の岡本鉄二氏が作画している、と「ビッグコミックスピリッツ」に「なぜか笑介」「だから笑介」を連載していた聖日出夫氏が福岡に来た時に彼から直接教えられたが、業界ではよく知られていたことらしい。
羨ましいばかりの兄弟の繋がりだが、白土三平(岡本登)氏が亡くなった四日後の2021年10月12日に、弟の岡本鉄二氏も兄の後を追うように亡くなった。
「我々は遠くから来た。そして遠くまで行くのだ」。白土三平が「影丸」の口を通して言わせたこの言葉はあまりにも有名で、ほとんどの人が「忍者武芸帳」の「影丸」を思い浮かべるだろうが、それより前、イタリア共産党の指導者、トリアッティが演説で述べている。白土氏を取り巻く環境を考え合わせれば、彼がそのことを知っていてもおかしくはない。また画家ゴーギャンがタヒチシリーズの絵の中に同じような言葉を書き込んでいる。
トリアッティは同じくイタリアの思想家アントニオ・グラムシと親交があるから「社研」の壁に墨書した人物は「影丸」からではなく、グラムシを研究する中でトリアッティのこの言葉を知り壁に大書したのかもしれない。というのは、後に「社研」の読書会のレジュメでグラムシに触れた先輩がいたからだ。
それにしても「我々は遠くから来て、遠くまで行く」という言葉は禅問答的、哲学的な問題である。
我々が行く「遠く」とはどこなのか、我々はどこへ向かっているのか。
前へ進んでいるのか、それとも後退しているのか。
「遠く」とはどこなのか。
宇宙の彼方なのか、それともこの星に生命が生まれた頃のことなのか。
そこが出発点なのか、終着点なのか。
出発点と終着点は同じで、我々は円を描いてサイクルしているだけなのか。
多くの哲学者や宗教がこの課題に挑み、宗教は現世ではなく来生や彼岸に我々の起源や到達点を求めたが、それは成功したとは思えず、さらなる混乱を生んだだけだった。
(次回)に続く
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