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N の 憂 鬱-23
~名前をなくした日々の始まり(4)
金毘羅詣りに行く「森の石松」


   ▽金毘羅詣りに行く「森の石松」

 ほぼ同年代と思しきチンピラヤクザからエールを送られながらNは大学2年の夏の出来事を思い出していた。
 8月中旬のある日、後期授業の開始までまだ間があったが、夏季休暇を少し早めに切り上げ、神戸から関西汽船に乗って四国に向かっていた。いつも利用するのは夜行便だったが、一度ぐらいは昼間の船旅を楽しんでみたいと神戸港を早朝出航する便に乗り、甲板で潮風を受けボンヤリと対岸の景色や船縁で削られ泡立ちながら去って行く波を眺めていた。

 「暑いですね」
 そう声を掛けられ横を向くと、いつの間に来たのか若い男が横に立ち、同じように対岸の景色を眺めていた。
 歳は同じぐらいに見えたが、頭は短く刈り込んだ坊主頭をしていた。
「どこまで行くんですか」
 横で同じようにデッキに肘をつきながら若い男が話しかけた。
「M市」
「そうですか。自分は高松までです。四国はうどんがおいしいですね」
 そう言われてNは驚いた。
(うどんがおいしい? そうかな、普通だろ。そんなにおいしいと思ったこともないけど)
 うどんと聞いてNの頭に浮かんだのはM市で1、2度食べたことがある夜鳴きうどんか学食のうどんぐらいで、讃岐うどんは口にしたこともなかったし、「讃岐うどん」という言葉自体知らなかったぐらいだから、うどんの麺は柔らかくグチャッとしているという認識だ、汁うどんはあまり好きではなかった。

「関東のうどんは汁が真っ黒で、おいしくないですよ。だけど、こちらのうどんはおいしいと思いましたね」
(汁が真っ黒? それってうどんのことを言っているのか)
 関東地方の醤油味のうどんを食べたことも見たこともないNは相手が言っていることが分からなかった。
「関東のうどんは醤油で汁も真っ黒で、おいしいと思ったことがない」
 若い男から重ねてそう言われ、へー、そうなんだ、関東のうどんは醤油で真っ黒なんか、それは聞くだけで不味そうだ、それと比べればおいしいかもな、と納得した。

「お兄さんはM市まで行くんですか。俺は高松までです」
 若い男も単調な船旅に退屈していたのか、歳も近そうだから話しやすいと感じたのか、問わず語りに話し始め、行き先は「高松」だと重ねて口にした。
「金毘羅さんに行くんです」
「金毘羅さんですか。いいですね」
「刀を奉納しに行くんです」
「刀を? 金毘羅さんに?」
「親分に頼まれたんです。日本刀を奉納してきてくれ、と」
 そう聞いて清水次郎長の子分、森の石松を思い出した。
「それってまるで清水の次郎長に頼まれて刀を奉納に行く森の石松じゃない」
「ははは。そう、森の石松ですよ」
 そう言って笑った男の顔はとてもそんな世界に身を置いているようには見えなかった。
 「うどんがおいしい」「魚もおいしい。特に刺し身がおいしい」と食べる物を喜んでいた男と、親分の刀を金毘羅さんに奉納に行く森の石松そのものの、恐らくは裏稼業に身を置いているであろう男の生活イメージが重ならなかった。
                                  (5)に続く
 


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