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N の 憂 鬱-23
〜名前をなくした日々の始まり(5)
「ジャパニーズ オフロ ダイスキ」と話す外国人


▽「ジャパニーズ オフロ ダイスキ」と話す外国人

 船旅ではいろんなことが起きる−−。そういえば、と翌年夏に起きた「事件」のことが思い出された。
 あの時も昼間、関西汽船に乗船していたんだった。たまたま船内で経済専攻の同級生と一緒になったが、俺は一人、船室の喧騒を避けて甲板に出、長椅子に腰かけ文庫本を読んでいたんだ。外国人客も目に付いたが、英会話の勉強のために彼らに話しかける気もなかったし、欧米系の人間は声も大きく賑やかだから、彼らを避けて、人があまりいない甲板で本を読んでいたというのに、わざわざ話しかけて来た外国人の男がいたのには参った。

 そう、あの時、人の視線を感じるということが初めて実感として分かった。それまでは小説や映画の表現だと思っていたが、本当に人の視線を感じたのだ。顔を視線の方に向けると色白の中年外国人がこちらを見ているのを認めたので、話しかけられると嫌だなと思い、甲板で読書するのを諦め、下のデッキに降りたというのに、その男が追いかけて来て「Do you speak English?」と話しかけるものだから面倒臭いなと思ったが仕方なく「a little」と答えた。
 俺としては「ちょっとだけしか喋れないから、あなたの相手はできない」と受け取って欲しかったが、相手は「ちょっとは話せるようだ」と受け取ったみたいで、離れて行くどころかさらに話しかけてきたのには参った。
 話しかけられたくないから甲板を離れて下の階に移動しているというのに追っかけて来てまで話しかけることはないだろう。いや、相手が女性ならこちらの方から話しかけたいところだが男には興味がないし、英語もほとんど出来ないのだから。
 そんなこちらの気持ちにはお構いなしで話しかけてくるものだから、礼儀正しい日本人は相手をしなければいけない、と思ってしまう。いや、相手が言っていることがよく分からないから、日本人の得意技スマイルを繰り出してしまう。それがまた相手の誤解を生む。好意的に解釈され、さらにフレンドリーに話しかけてくる。

 話しかけてくる言葉は分からなくても、会話となれば別で、身振り手振りが加わるから言語コミュニケーションの不足分をボディランゲージで補っていく。ああ、もう一度上の甲板に戻って話をしようと言うのか、と分かった。
 こういう時「あいまいな日本人」はきっぱりと断れない。「まあ、いいか」と妥協してしまう。で、結局、また甲板の同じところに戻った。

 するといきなり「ニッポン、ダイスキ」と日本語で言ってきた。それを皮切りに日本礼賛が始まった。極め付けは浴衣を着て、石燈籠を設置した自宅の庭で写した写真を見せられたことだ。
 あまりに褒めちぎられると、根が天邪鬼だから反論したくなる。男はドイツ生まれで現在ローマに住んでいてハイスクールの教師をしていると言っていた。それなら今の世界情勢が分かっているはず。世界中でアメリカのベトナム戦争介入反対運動が起きているのを知っているだろう。
 日本はアメリカに基地を提供し、日本国内の基地からベトナムに向けて軍用機が毎日飛び立ち北ベトナムを空爆している。日本はベトナム戦争に加担している「Imperialism(帝国主義)」であり、あなたが言うような素敵な国ではない。

 そう言うと、あの男は日本はImperialismではないと反論し色々言ってきたが、相手の話す言葉がどんどん日常会話のスピードになっていき話の内容はほとんど理解できなかった。
 最初に「a little」、ちょっとしか話せないと断ったはずなのに、普通の会話スピードで話されると全く理解できないではないか。
 こちらのそんな気持ちが伝わったのか、それともそんな難しい話をするつもりではないと思ったのか、話を変えてきた。

 甲板で陽射しを浴びていると暑いし、潮風を受けて肌がベタベタする。だから風呂に入ろう。そんなことを言ってきた。いや、言葉は分からなかったが身振り手振りで、恐らくそう言っているのだろうと分かった。
 そう、ここでも「ジャパニーズ オフロ ダイスキ」と、そこだけは日本語で言ってきたのだ。

 風呂? 船に浴室があるのか? 
 2等船室しか知らないから船に風呂があるなんて知らなかったが、男は1等室で、風呂が付いていると言った。
 それを聞いて、冗談じゃない、風呂なんか入ったら危ない、と思ったね、俺は。大江健三郎の本を結構読んでいたから、欧米人にホモが多いと知っていたから、これはマズイと思った。兎にも角にも一緒に風呂に入るのは危ない。それだけは断らなければ。だが、なんと言って断るか。そうだタオルがない、と言えばいいだろう。
 そう思い付き「no towel」と言った。
 すると両手を耳の横で合わせ寝る格好をしながら「pillow cover」と言われた。
 えっ、枕カバー? 枕カバーがどうした? それをタオル代わりにすると言うのか。

 えー、参ったな。他に何かないか。そうだ、石鹸だ。石鹸がないと言えばいい。
ところが、石鹸の英語が出て来なかった。あれには参ったな。「soap」という簡単な単語が出て来なかったのだ。
 えーっと、石鹸は何と言うんだった。石鹸、セッケン、せっけん。他の言葉はないか。頭の中を「セッケン」という単語がグルグル回る。焦れば焦る程出て来ない。他の単語も浮かばない。
 今考えれば「セッケン」と日本語で言えばよかったのだが、あの時はそんなことすら思い浮かばなかった。
 あの時は本当に参ったな。顔は紅潮するし、冷汗は出てくるし。他に断る理由をいくら考えても思い付かなかった。だから仕方なく「オーケー」と言ってしまった。

 その途端、男の顔がパーと輝いた。ますます危ないと思ったが、夏の陽射しと潮風で半袖からはみ出ている腕や胸元がベタ付いていたのは事実だし、1等船室に風呂があるなら、どんなものか見てみたいという好奇心もあった。
 男は1等の自室に戻り、本当に枕カバーを持って来たので、男の後に付いて1等船室の風呂場へと向かった。
                                  (6)に続く
 


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