見上げた空は墨で塗りつぶしたように真っ黒で、星一つ見えなかった。それまで地上へ赤い尾を引きながら断続的に落ちていた流れ星ももう見えなくなった。地上に落ちた後、龍の口から吐き出された炎は地上を赤く這うこともなく、すぐさま放水でかき消され、赤い炎を周囲に広げるまでもなく、線香花火が燃え尽きポトッと落ちるように消えて行った。
もともと持ち込まれた数は少なかったから、すぐ底を突き、法文館に立て籠もった30人程は次第に屋上へと追い詰められていく様がサーチライトの光に照らされ外部からでも見えた。
地上からは消防ホースを伸ばした民青、右翼学生が屋上に向かって容赦なく放水を浴びせかける。せめて放水は止めたかったが、投げる火炎瓶ももうなく、せいぜい放水が届かない位置に逃げるしかない。対抗上、法文館側からも消防ホースを引き出して放水しようとしたが、水道、ガス、電気は大学当局の手によってとっくに止められていた。
下から怒声が聞こえる。時間は夜10時を回っていたが、騒動を聞き付けた学生達が集まってき、次第にその数を増していた。その中には女子学生の姿もかなりいた。誰も彼もが眉を寄せ、不安げな表情をしていたが、建物を見上げる彼らの目には怖いもの見たさの光が宿り、第2幕の緞帳が上がるのを今か今かと待ちわびているようだった。
その内、待ちくたびれた観客が「早くしろ」と叫び、幕開けを急がせる。
劇場の関係者達が逸(はや)り、暴徒化しそうな観客を宥めにかかる。
「落ち着いて! 急ぐと危ない。怪我人が出るから、これ以上近付かないように」
「何を言ってんだ。テメエらがグズグズしているからだ。さっさとやっちゃえ」
無責任な野次馬が囃し立て煽りまくる。
緞帳の裏では出演者達が次の幕開けまでのわずかな時間、寒さに身を震わせながら角材を杖に立ち尽くしていた。
(腹減ったな)
闇のような空を見上げながらNはぼんやりと、そんな日常の感覚にとらわれていた。その視界に隣りの男が何かを捨てるような動きが入ってきた。横を向くと、そこに哲学科同期の福山が寒さに全身を震わせながら、両手でゲバ棒を握りしめて立っていた。彼も放水を被ったと見え服は濡れ、身体が小刻みに揺れている。
その姿を見て、いま横にいる男は本当に福山なのか、暗くて見誤ったのではないかと思い、もう一度見た。だが横にいるのは間違いなく福山だった。
なぜ、福山がここにいるのだ。いつからバリケードの中にいたのか。そんな考えが寒さで活動停止状態の脳に浮かんだが、身体も脳も寒さで縮こまり、それ以上考えることはできなかった。
福山はNと同時期に哲学に転学部した5人の内の1人で、工学部出身だった。サークルは新聞部で、Nの社研とは近い存在で両部のメンバーは互いに交流があったから顔は以前から見知っていたが、挨拶を交わすぐらいで、それ以上の会話を交わしたことはなかった。
哲学に進んでからも関係は変わらなかった。同じ指導教官の下で勉強していたし、ゼミも同じだったが、福山は教室やゼミで積極的に発言するタイプではなかったから、2人の間に会話はなく、両者の関係が深まることはなかった。
Nが不思議に思ったのはそれまで学内外のデモの際、福山の姿を認めたことがなかったことだ。あるいは参加していたのかも分からないが前列の方に位置せず、いつも後部の方にいたのかもしれない。いずれにしても「活動家」のイメージはなかった。それだけに中核派の法文館バリケード占拠を手伝うと決めた会議の席にいたか、その後、バリケード構築を手伝うため中に入り、N達と同様に閉じ込められ、退去できなくなったのだろう。
福山はよほど寒かったと見え、鼻から鼻水が半分程垂れ下がっていた。Nも寒さで歯の根をガタガタと震わせていたが、福山の顔を見て、なんだみっともないと思うと同時に、自分も鼻水を垂らしているのではないかと鼻を右手で擦ってはみたが結果を確認することはできなかった。よしんば鼻水が垂れていてもティッシュがあるわけでもなく、鼻を拭ける状況でもなかった。だがみっともない格好だけは見られたくなかった。
「おい、なにか食べていたみたいだが、食べるものがあるのか」
「下から食べ物を投げ入れてくれたんですよ」
「えっ、本当に?」
「うん、おにぎりなんかもあったのではないかな」
「本当かよ。もうないんか」
「そこらを探せばあるかもしれないけど、皆、拾っていたからな」
その言い方に冷たさを感じたが、彼が口にしたのはおむすびではなくミカンだったと知り、暗闇の中、サーチライトが照らす灯りを頼りに屋上の床を身を屈め、斜めの角度で見たが食べ物らしきものは周辺に見えなかった。
辛うじて目に入ったのは先程、福山が捨てたと思えるミカンの皮だけだ。なんだ皮かとガッカリしたが、拾って口に運んだ。
日常生活では絶対にしない行為だし、そんな真似をするぐらいなら餓死した方が増し、とさえ考えていたが、いまは惨めさも卑しさも感じず、一瞬の躊躇さえなく捨てられていたミカンの皮を丸ごと口に入れ喉の渇きを押さえた。
その変わり様が自分でもおかしかった。いい加減なものだ。人は変わるというが、ついこの間までコーヒーはインスタントではなくコーヒー専門店でモカを100g、ブルーマウンテン100gなどと注文し、ブレンドしたものを挽いてもらい、下宿に帰ってサイフォンでコーヒーを淹れて飲んでいるNの日常を知っている者からしてみれば、落ちているミカンの皮を拾って食べる彼の姿は想像できなかったに違いない。
(10)に続く
#全共闘運動 #佐藤訪米阻止闘争
|