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N の 憂 鬱-22
〜バリ封鎖と逆封鎖、法文本館の激しい攻防戦(2)


 10年前、日米安保条約の調印を行ったのは岸信介首相(当時)であり、野党等が大反対する中、国会で強行採決し条約を批准したため、野党、学生達の激しい反対運動が起き、6月15日、全学連主流派が国会に突入して警官隊と衝突した際、当時東大生だった樺美智子さんが死亡した「60年安保闘争」のことは多くの人達の記憶にまだ残っている。
 同条約は期限10年と定められ、その延長に臨んだのが岸信介の実弟、佐藤栄作であり、兄弟がそれぞれに安保条約の調印を行ったが、佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞したのはなんとも皮肉な話だ。

 60年安保闘争から10年後の70年安保闘争は10年前と状況が異なり、国際的にもベトナム戦争反対の声が高まっている中での反対闘争である。
 また68年10・21国際反戦デーでは新宿駅周辺がデモ隊、群衆で埋め尽くされ、革命前夜を彷彿とさせる状態になったことを思えば、11月佐藤訪米阻止闘争は新左翼各派はもとより労働組合、反戦市民団体も一致団結して一大反対運動が行われてもおかしくはない。
 だが、68年と69年では少し状況が違った。69年では68年のような情況を創り出せなかった。それは1つには新左翼各派を中心に多くの仲間が逮捕、拘留されたため組織の動員力が弱まったことがある。
 そしてもう1つは東大闘争以降、新左翼各派の対立・分化と内ゲバが続いたことや、全共闘が当初のノンセクトラジカルの主導からセクト主導の闘争に変わり出し、運動が過激な方向に走り出したことから、それまでの支持層学生が次第に距離を置き出しことがある。

 地方の大学、N達のE大でも同じか、それ以上に外部の熱は冷め、11月佐藤訪米阻止に向けた闘いは市民を巻き込んだ大きな渦になるどころか「学生運動」の枠内に閉じ籠もりつつあった。
 本来、運動のベクトルは外に向かって広がるべきだが、逆にベクトルは内向きに働いていった。それは彼ら自身の問題であるとともに、そうならざるを得ない情況がE大にもあった。
                           (3)に続く

#全共闘運動 #佐藤訪米阻止闘争
 


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