▽非情になり切れない弱さ
E大は春から授業放棄スト、法文館バリケード封鎖、機動隊導入、学長室・本部事務局占拠、そして9月29日早朝に右翼防共挺身隊が全共闘を襲撃するなどの事件が相次いで起き、Nもデモに参加したり、学内で配るビラづくりに追われる毎日で授業やゼミに出席するよりヘルメットを被って過ごす時間の方が多くなっていた。
9月中旬ごろからはMLの機関紙「赤光(しゃっこう)」に「10・21国際反戦デーに結集を」「佐藤訪米阻止」「首都決戦」などの大見出しが躍るようになった。
そんなある日、Nのもとに「大阪御堂筋集結」の指示が届いた。
前年の国際反戦デーでは新宿駅東口広場を学生、市民約2万人が埋め尽くし、機動隊に投石を行うなど激しく衝突。新宿駅周辺は半日マヒし、その様子を目にした誰もが市民革命前夜を彷彿とし「夜明けは近い」と興奮していた。
さらに夕方から夜にかけて反対行動は一層激しさを増し、新左翼各派は国会、防衛庁、アメリカ大使館などに突入。機動隊との間に激闘を展開するなど市街戦さながらの様相を呈した。
一部には防衛庁に火炎瓶攻撃をかけるという意見も出たが、そこは思い止まり、隊列を組んでのデモ突入を繰り返した。
夜になると新宿駅周辺は野次馬も加わり、駅構内や駅前で火の手が上がるなど、まさに無政府状態。その様子に政府は一時、自衛隊の出動まで考慮した。
結果的に自衛隊の出動は思い止まったが、戦前の破防法(破壊活動防止法)に似た騒乱罪を適用しデモ隊を容赦なく逮捕。この日、約750人が逮捕され、その内450人に騒乱罪が適用された。
68年10・21の国際反戦デー、69年1月の東大闘争と逮捕者が相次いだ新左翼各派だったが、69年10・21は前年を上回る人数を東京に招集し、前年を上回る反対行動の展開を目指した。ML、中核派、ブントなど各派の機関紙には「首都決戦」という文字が踊り、東京動員を呼びかけた。
68年10月21日の新宿駅構内外で繰り広げられた光景を目にすれば、傍観を決め込んでいたサラリーマンであれ、怖いもの見たさに遠巻きしていた野次馬であれ、誰もが妙な胸の高鳴りを覚え、訳も分からず興奮し、学生達と一緒になって投石を繰り返した。
それはベトナム戦争反対という明確な意思表示や反権力志向というものではなく、日常の鬱憤晴らしからだったかもしれないが、ガス銃を撃ち、デモ隊に盾と警棒で殴りかかる機動隊を目にした時、佐世保で多くの市民が学生を味方したように、権力を手にした者達への直感的な反発、対抗心が芽生えたのだろう。
東大安田講堂の攻防戦を最後に新左翼各派は学園闘争を見切り政治闘争に切り替えた。それはベトナム戦争反対の世界的な潮流でもあったし、当面の目標はその年の秋に予定されていた佐藤栄作首相の訪米を阻止する闘争に力を集中することだった。
そのために10・21国際反戦デーには前年以上の情況を創りだし、佐藤政権を一気に打倒する。その目標を掲げ各セクトは首都への大量動員をかけていた。
Nのもとにも「全員招集」の指示が届いた。
(東京は嫌だな)
「招集指令」が来るだろうとは思っていたが、東京は嫌だなと感じていた。理由は今まで東京には行ったこともないし、右も左も知らないから新宿がどこにあるのかの見当もつかないし、集合場所を指示されてもそこに行く方法すら分からなかったからで、東京の地理不案内という理由からだ。
そんなNの不安をよそに仲間の後輩たちは「東京行き」をなんとも感じてなく、「行きましょう」と明日にでも行きそうな意思表示をするものだから、Nの方が少し心配になった。
(遊びに行くのとは違う。こいつらなにか勘違いしてないか)
「いや、俺たちは東京ではなく大阪に集合とのことだ」
そう伝えると少しガッカリしたような表情が彼らに見え、ますます心配になったが、反対の声はなかったので話を続けた。
「全員招集だが、1人は残れという指示だ。もし大阪で全員逮捕された場合でも組織を潰すわけにはいかない。だから残った1人がもう一度、組織を立ち上げ、再建させなければならない」
そこまで言って言葉を切り、一同の顔を見回した。
「言わなくても分かっていますよ」
彼らの顔はそう語っていた。
「うん、四国では俺に残れということだった」
そう伝えてもう一度一同の顔を見回した。誰からも異議も質問もなく、全員がその指示を当たり前のように捉えているようだったが、一人の表情がわずかに揺れた。その変化をNは見過ごさなかった。
(4)に続く
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