N の 憂 鬱-21
〜東大から全国へ、燃え広がった燎原の火(2)


 機動隊側は佐世保の経験から放水の効果を学習していた。一方の学生側は安田講堂とその周辺校舎に立て籠もり対抗するという籠城戦で、佐世保闘争から何かを学んだ風はない。
 籠城戦は立て籠もった方が圧倒的に不利なのは過去の歴史が証明する通りであり、拠点を守る必要がない反対闘争は防御ではなく攻勢に回るべきで、それが戦闘の定石だ。

 佐世保エンプラ阻止闘争が多くの市民を巻き込み、闘いからの帰路、佐世保商店街の店主からずぶ濡れになった洋服の着替えを無料で提供されたり、乗り込んだ博多行きの列車の車掌から「ご苦労様です」と声を掛けられたり、車内で乗客から席を譲られたりと、多くの市民が支援の手を差し伸べたのはベトナム戦争反対という共通認識があったことはもちろんだが、闘争が外部に対し開かれていたことも無関係ではないだろう。

 だが、東大安田講堂立て籠もりは外部に対し閉ざされた闘争になり、外部からの参加をしにくくした。それ故に「極左学生」がゲバ棒を持って騒いでいるという認識の方を広げ、問題の本質を広く社会に訴えることができない孤立無援の闘いになった。

 安田講堂攻防戦で目を引いたのが工学部列品館に立て籠もったML派だった。彼らは38人という少人数部隊だったが、戦い方は「本格的」で、都市ガスを引いて先にノズルを付けた手製の火炎放射器を作り機動隊を寄せ付けなかった。最終的には全員逮捕され、東大闘争の中では最も重い刑が彼らに科せられた。

 後に中核派との内ゲバに明け暮れる革マルは当初、安田講堂の最も目立つ場所に陣取っていたが、途中でなぜか法文二号館に移動したので、その場所を中核派が陣取り、中核派の旗を掲げたものだからTV等のメディアでは中核派が目立った。
 東大闘争における革マル派の評判はあまり芳しくない。というのも安田講堂から法文二号館への移動もそうだが、当初は安田講堂占拠・籠城に反対したり、機動隊の導入が近いと知ると「退避せよ」と上層部が指示を出したりと、まるで民青と変わらないような行動を取ったため、他セクトから「敵前逃亡」と受け取られたのはやむを得ない。
 
 「我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、一時この放送を中止します」
 こう呼びかけて東大闘争は幕を降ろしたが、東大で燃え上がった炎は燎原の火の如く地方へと広がって行った。
                                  (3)に続く
 #東大闘争 #全共闘
 


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