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N の 憂 鬱-10
  〜反戦歌とフォークゲリラ(3)


▽「友よ」でアジられた多くの若者

 フォークゲリラにNがあまり反応しなかったため、もう少し説明が必要と感じたのか後輩はさらに言葉を繋いだ。
「ほら、新宿西口広場で歌っているの見たことありません?」
「TVなんかないし、近所の食堂に行った時に見るぐらいやけど、かかっているのはいつも”ひょっこりひょうたん島”やで」
「そうですか。でも”夜明けは近い 夜明けは近い”という歌は知っているでしょ。歌ってますやん、ぼくらも」
「ああ、あれな。”友よ 闘いの炎をもやせ”ってやつな」
「ああいう歌を集まって歌っているんですよ。新宿西口広場はスゴイですよ。人がいっぱい集まって」
「M市でもやってるんか」
「よくは知りませんけど、私鉄の市駅前で歌っているみたいです」

 当時、学生や労働者の間で岡林信康の「友よ」という歌が「インターナショナル」以上にあちこちで広く歌われていた。

 友よ 夜明けは近い 夜明けは近い
 友よ 夜明け前の闇の中で
 友よ 闘いの炎をもやせ
 夜明けは近い 夜明けは近い
 友よ この闇の向こうには
 友よ 輝くあしたがある

 友よ 君の涙 君の汗が
 友よ むくわれるその日がくる
 夜明けは近い 夜明けは近い
 友よ この闇の向こうには
 友よ 輝くあしたがある

 友よ のぼりくる朝日の中で
 友よ 喜びをわかちあおう
 夜明けは近い 夜明けは近い

 友よ 夜明けは近い 夜明けは近い
 友よ 夜明け前の闇の中で
 友よ 闘いの炎をもやせ
 夜明けは近い 夜明けは近い
 友よ この闇の向こうには
 友よ 輝くあしたがある

 繰り返される「夜明けは近い」というフレーズは新しい時代を予感させ「闘いの炎をもやせ」というフレーズに学生や労働者は鼓舞された。
 この歌を歌うことによって「ベトナム戦争反対」を叫ぶ学生、労働者、市民はデモで機動隊に蹴られ、殴られ、逮捕者が続出しても、自分自身を奮い立たせ、一体感に包まれ、団結を強めた。
 闘っているのは自分達だけではない。多くの労働者、市民、さらには直接デモに参加していなくても、その後ろに支持してくれている多くの人がいるのだと連帯感を強めたのは間違いない。

 「友よ」は岡林信康の作詞・作曲になるものだったが、「闘いの歌」として作られたわけではなかった。一番の歌詞が闘いをイメージさせるため、抵抗の歌としてよく歌われたが、岡林がこの歌を作った時、一番の詞はなかった。そこに鈴木孝雄が三番の歌詞を付け加えたのだ。
 ところが、この歌が世に出た時は三番の歌詞が一番に持って来られ、歌い出しが「友よ 夜明けは近い」となったため、聴く人に強烈な印象を与え、当時の時代背景と相まって「抵抗の歌」のシンボル的存在になった。

 この詞をよく読むと一番の詞に比べ、二番、三番は少し質が異なり、力強さより柔らかさ、やさしさが感じられる。もし、一番の詞がなければ「友よ」はあれほど歌われることなかったかもしれないし、岡林自身、反戦「フォークの神様」と祭り上げられることもなかったかもしれない。
 岡林信康の父親は牧師で、彼自身も牧師になるため同志社大学神学部に入学したと聞いた時、70年以降、彼が「友よ」を「封印」したのが少し分かるような気がした。ただ、それは「気がした」というだけで、理解したわけではなく、むしろその逆。Nには自分の責任を放棄した敵前逃亡のように感じられた。
                           (4)に続く

 #岡林信康 #夜明けは近い #闘いの炎をもやせ


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