N の 憂 鬱-20
〜反戦歌とフォークゲリラ(4)


 本人の意思とは関係なく扱われたとしても「友よ」はアジテーションそのものだった。むしろマイク片手に「われわれは〜」と叫び、聴衆に訴える全共闘や新左翼のアジテーション以上の効果が、あの歌にはあった。

 「友よ」に鼓舞され、闘いの中に飛び込んだ者、闘いに身を置いた者、デモに参加して拘束された者もいるだろう。彼らに対する責任を微塵も感じないのか。自分は反戦歌を歌いたかったわけでも、反戦歌を歌ったつもりでもない。そんな意味のことをボブ・ディランなども後に語っているが本当にそうなのか。それはおかしくないか。
 いや、もっと言えば、あの時代にボブ・ディランも岡林信康も彼らの歌が時代に受け、また彼ら自身がそれを享受し、時代に乗ったのだから、当時の自分を否定し、あれは自分の意思ではなかったというのは卑怯ではないか。
 その後の自分の生き方は当時と変わったが、あの時代に歌で訴えた自分も同じ自分で、あの時代にはそう感じていたと言われた方が、当時、彼らの歌を熱狂的に支持した者達は少しは救われるのではないか。

 「歌で社会を変えられるとは思わない」
 Nは吐き捨てるように言った。
 歌は応援歌であっても、それ自体に現実を変革する力はない。反戦歌、応援歌を歌っている者にしてもどこか他人事で主体としての自分が欠けているような気がし、歌っている連中をあまり好きにはなれなかった。
 好きになれない理由の1つには、ギター片手に歌っている連中がデモに参加している姿をほとんど見かけたことがなく、自分の身を安全圏に置きながら運動に参加している風を装っているように思えたからだ。
 宗教と似ているな。
 そう感じた。怒りを直接ぶつけるのではなく、歌うことで怒りを昇華した気にさせる代替行為、マスターベーションではないか、と。それは日共(日本共産党)が指導した「うたごえ運動」とあまり変わらなかった。
 もちろん歌い方にも色々ある。権力と対峙した最前線でスクラムを組み、座り込み、あるいは戦車の前に身を置きながら歌う歌には現実を変え得る力がある。
 それは歌っている人達が後方の安全圏ではなく、最前列に身を置きながら団結を誓い、呼びかけているからだ。
                             (次回に続く)

「俺は臭くない!」と言い切る自信、ありますか?
加齢臭・体臭で周りの人が迷惑しているかも!?

 


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