▽うたごえ運動と歌声喫茶
「おい、この頃ギター持っている奴がいるけど、あいつらはなにしてるんだ」
そう問われて、MLで共に活動している後輩の理学部学生は驚いたような目をNに向けた。
「えっ、Nさん、フォークゲリラって知りません」
「何それっ」
「ボブ・ディランとかジョーン・バエズを知りません?」
「ボブ・ディランやジョーン・バエズは知っているよ。反戦歌やろ」
「そうです。反戦歌を歌ってベトナム戦争反対を訴えているんですよ」
「あ、そう。ベ平連の連中か」
「いや、ベ平連に参加している者もいるでしょうけど、それとは直接関係はないようです」
「ふーん」
歌と聞いてNの頭に過ったのは戦後の「うたごえ運動」と、この頃各地に出来ていた「歌声喫茶」で、Nも一度、大阪で連れられて行ったことがあったが、その時Nを連れて行ったのが誰だったのか。なぜか記憶を探っても、男だったのか女だったのか、まるで霞がかかったようにぼやけていた。
覚えているのは歌詞カードが配られ、皆でロシア民謡などを合唱した光景で、正面のステージらしき所に数人が並び、歌の上手な女性がリードし、それに合わせて皆が立ち上がり一緒に歌った記憶だけだ。
そう、大学のコンパの打ち上げの時に歌うような感じだった。肩こそ組まないが、同じ歌を参加者全員が合唱することで疑似一体感のようなものが生まれ、その空間に留まっている間、心地よく、高ぶった気持ちに支配される。
その後に感じる感情は、コンパを終え、店の外に出て、三々五々に散って一人下宿に帰っていく道中に感じる虚しさと似ていた。
Nが歌声喫茶に参加したのは後にも先にもその時だけだったが、歌声喫茶には何度か通えば嵌まりこみそうな雰囲気がたしかに存在した。その場にいる人達の顔や素性を知らなくても、同じ歌を歌うことによって得られる親近感、一体感みたいなものを感じることができ、疑似同志感が生まれ、歌が、歌の歌詞が共同幻想を抱かせるのだった。
だが、歌は革命幻想を見させるだけで、歌うことだけでは何も変わらないし、何も変えられない。変わった、変えられたと感じるのは自分の心で、それを行動に移さなければ現実は何も変わらない。
日共が指導した「うたごえ運動」では現実を何も変えられなかったことがそのことを証明していたが、「うたごえ運動」は大衆に変革の幻想を見させただけにむしろ罪深いと言える。
N自身、歌声喫茶に参加した時、そこまでのことを理解していたかどうかは分からないが、歌とか音楽に対し、どこか好きになれない感情、嫌な思い出が影響していたのかもしれない。
子供の頃から歌に親しみを感じたことはなかったし、ラジオから流れてくる歌声に聞き入ったこともなく、歌とは無縁の生活を送っていたといっていい。それなのに小学校高学年の頃、合唱部に入れられた。本人の意思とは関係なく音楽の先生がメンバーを勝手に選んで合唱部を作り放課後に合唱の練習をさせた。
Nはなぜ自分が合唱部に参加させられているのか理解できず、練習が嫌でよく逃げ帰っていたが、生憎自宅が小学校の隣だったものだから、同級生が先生に言われていつも連れ戻しに来た。それでますます音楽の時間が嫌いになり、音楽だけ5評価の4だった。
中学生になりこれで合唱部から解放されたと思ったが、小学校の時の音楽の先生が中学に転勤になって中学でも同じ先生が音楽を教えた。
中学生になると声変りがする時期になる。ところが小学生の頃から知っているその先生は「この音が出ませんか。出るでしょう」とボーイソプラノの音を歌わせようとする。
声変わりをした直後は極端に声が低くなり、以前に出ていた音は出なくなる。そのことは先生も分かっているはずだと思ったが、先生は小学生の頃のイメージから脱却できないのか、オルガンを弾き、執拗に高音を歌わせようとした。
そんなことがありますます歌が嫌いになり歌わなくなった。だから音をきれいに拾えないし、その音程の音の出し方が分からない。音痴である。音痴を自覚するからますます歌わなくなる。
後年、カラオケ時代がやって来ると誰も彼もがマイク片手に歌い出す。そんな時でも極力歌わずに済むカラオケがないスナックに行っていた。しかし、サラリーマン時代はそうとばかりも行かず、歌わなければならないこともある。そうした時は高倉健の「網走番外地」を歌うようにしていた。
理由は曲が単調で、音程の上がり下がりがあまりないし、皆が歌うようなポピュラーな歌ではないから誤魔化しがきく。なにより高倉健自身、歌がうまいわけでもなかった。上手な歌手の歌を歌えば差が歴然とするが、それほどでもない歌手の歌なら差はあっても小さいというわけだ。
だが、これも食わず嫌いみたいなもので、練習という程ではなくても、回数歌っていればそれほど音程を外さなくなるものだということも分かったが、それは随分後のことだ。
(3)に続く
#反戦歌 #フォークゲリラ
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