N の 憂 鬱-17
ML派の旗を掲げる(4)
ー毛沢東思想、ML派との出会いー



▽毛沢東思想、ML派との出会い

 Kを尋ねて大阪から友人達がやって来た数か月後、大学の夏休みを利用しNは大阪のKの家に遊びに行き、そこで2泊した。その後、従兄弟の家に数日宿泊したが、大阪滞在中はKの友人達と交流を重ねていった。

 従姉妹の家は住吉区長居で近くには昔、競馬場があった。ただ、その頃にはすでに競馬場はなくなり跡地は公園になっていたが、従兄弟家族は場所を説明する時「競馬場の近く」とよく言っていた。それはNが福岡市「昭和通り」のことをいまだに「50m道路」と昔の通称で言うのと似ていた。Nよりもう少し下の世代になると「50m道路」と聞いてもなんのことか分からずキョトンとされるが、同年輩か上の年代には「50m道路」や「旧電車道」という表現で通じるし、そうした言葉を聞けば同時代を共に過ごした同窓生のような懐かしさを覚えるのだった。

 「何をしているんですか」

 Kの友人に連れて行かれた民家の作業小屋のような場所でN達よりは少し年上に見える男性がスプレー缶から赤い液体を何かに吹き付けていた。木工作業でもしているのかと思い、手元を覗き込みながら挨拶がてらの声を掛けた。
「あっ、これっ。ヘルメットを拵えとんねん」
 ヘルメットを拵える? 言われた意味が分からなかった。
「岩田さんのヘルメットはこんなんやなく、もっと本格的なやつやで」
 横からKの同級生が口を挟んだ。
 本格的なヘルメット? ますます意味が分からない。

 岩田と呼ばれた男の手元を覗き込むと、そこにはパッと見には赤色のヘルメットに見えたが、ヘルメットの頭頂部に前方から後方にかけて幅5、6cm程の白い線が通っていた。それは西部劇などで見るモヒカン族の頭のようにも、スカンクかハクビシンの白毛のようでもあった。そしてヘルメットの両側面には白文字で「SFL」の文字が読み取れた。

 (何、これっ。)

 N達がデモの時被っていたのは赤ヘルだった。本来、赤ヘルはブント(共産同)を表すヘルメットの色で、中核は白ヘルメットで前方に「中核」の文字を入れていたし、青ヘルは社青同解放派というように、各セクトによりヘルメットは色分けされていたが、N達の大学では当時はまだセクト色がそれほど強くなく、中核系を除けばヘルメットは本来の意味、頭部保護という目的で着用されており、赤ヘルを被ったからブントという意識はほとんどなかった。
 それなら赤ヘルでなく工事現場などでよく被られている白いヘルメットでよかったようなものだが、それではあまりにも芸がないし、古くからの活動家はブント系(所属・支持を含め)だったため各セクトの理論を深く考えることもなく、「闘争=赤色」という無意識の意識があったのかもしれない。

 歴史的に見れば、革命の旗が「赤」と決まっていたわけではない。国や地域、時代によっても様々な色の旗を掲げ戦ってきているが、ロシア革命、中国革命で赤旗(中国では紅旗)が旗印になり、軍隊も赤軍、紅軍と呼ばれたことから赤色が革命を象徴する色というすり込みが行われたのかもしれない。

 Nのリアクションのなさに、こいつ、何も知らないのか、と感じた岩田は黙って立ち上がり奥から右手に何かをぶら下げて出て来ると、黙ってNの前に突き出した。
 いきなり目の前に突き出されて驚いたNは、それでも反射的に手を出してドッジボール程の大きさのものを落とさずに、なんとか受け取ることができた。目にしたのはヘルメットだったが、工事現場用の薄くて軽いものではなく、厚みがあり重かった。そして後頭部は皮で覆うような仕様になっていた。

 (高そうだな)

 最初の印象はそれだった。
 ヘルメットの色は赤だったが、市中でも見かけていた色であり、そこに違和感はなかったが、ヘルメットの頭頂部に前方から後方にかけて太い白線が走っており、両サイドには「ML」の文字が白抜きされていた。

 (岩田さんはMLなのか)

 「ML」はブントから分かれた社学同ML派、後のML同盟であり、その下部学生組織は「学生解放戦線」を名乗り「SFL」の略称を使っていた。
 MLの結成は1968年10月。「マルクス・レーニン主義」の頭文字「ML」を付け、当初、社学同ML派を名乗ったが「毛沢東思想」を指導理念とした。
 セクト(党派)の旗は赤色が白色を上下から挟み、「ML」あるいは「SFL」の文字を白く染め抜いていた。東大闘争では勇敢かつ戦闘的な組織として知られ、機動隊との安田講堂攻防戦ではMLの旗がぶら下がり、振られていた様子が当時のTV中継に映し出され、強烈な印象を残した。

 (MLの文字が入ったヘルメットを持ち、工事現場用のヘルメットを赤く染め、両サイドにSFLの白文字を入れようとしているということは学生達が被るためのヘルメットを用意しているということか。)

 「日大全共闘書記長の田村も実はMLやで」
 Kの同級生が横から口を挟んだ。
「えっ、日大全共闘の田村が? 田村は全共闘のヘルメットしか被ってないけど」
「MLのヘルメットは被ってへんけど、隠れMLというか、MLやねん」

 MLに限ることではないだろうが、当時の活動家達の中にはその後数奇な人生を歩んだ者が結構いる。
 東大闘争・安田講堂攻防戦の際、防衛隊長として最後まで安田講堂に立て籠もり、最後に「時計台放送」から「全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、一時この放送を中止します」と呼び掛けて「時計台放送」を終えた今井澄もそうだが、日大闘争を秋田明大とともに率いた田村正敏もその一人だった。

 田村はNと同年で誕生日が1か月ちょっと近かったこともNに親近感を抱かせたが、彼は昭和50年6月、北海道に移住して羊飼いになり、その後、「横路孝弘を勝手に応援する会(勝手連)」を立ち上げて横路知事誕生に尽力したことでも知られている。

 「Nさん、四国の大学でMLを立ち上げてみーへん。取り敢えず機関紙の”赤光(しゃっこう)”を送るから読んで」
 Kの高校時代の同級生達からそう言われた時、なんとなくそういう流れになるのではないかという予感はあった。
                            (5)に続く


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