N の 憂 鬱-17
〜ML派の旗を掲げる(5)
ー日中友好協会(正統)幹部と出会うー



▽日中友好協会(正統)幹部と出会う

 Kの後輩がコカ・コーラーの大きなペットボトルに口を付けゴクゴクッと飲みながら、そう、そうというように首を振り「四国に帰りはったら日中友好協会を訪ねはったらどうでっか」と口を挟んだ。

 彼は「反米」を唱えながら、コカ・コーラー大好きで、1リットルボトルでコーラーをがぶ飲みしていた。
「米帝の行くところコカ・コーラありやないか。反米闘争しながらコーラー飲んどったらあかんやろ」
 ちょっと嫌味っぽく言ってみた。
「いやー、それ言われたら弱いんですわ。でも、こんなに美味しいものはありませんよ。Nさんは飲まれへんの」
「コーラーは大阪国際見本市の時に会場で初めて飲んだけど、醤油みたいな味で不味かったのを覚えている。だから、あまり飲もうとは思わない」
「モッタイナイ。こんな美味しいものを飲めへんというのは。1回飲んで下さい。病みつきになりまっせ」
「いや、いや、やめとくわ」
 その時はそう言って断ったものの、大学に戻れば誰も彼もが当たり前のように飲んでいるのを見、そんなに美味しいのかと思い直し飲み始めたものの、炭酸のゲップが来る感じがあまり好きではなく、彼のように病みつきになることも常飲することもなかった。コカ・コーラーに限らず炭酸系飲料は体に合わないようだ。

「さっきの話やけど、日中友好協会ってどこに行けば会える?」
「あっ、日中友好協会は2つありますねん。共産党系のやつと、そうでないやつの2つが。共産党系と違う方は日中友好協会(正統)と言いますよって。接触を持つのは”正統”の方ですよ。共産党系の方に行ったらあきまへんよ」

 彼の話によれば中国が文化大革命を開始して以後、日本共産党(日共)は国際共産主義運動を巡り中国共産党と対立した。日共の反中共路線を批判した日共左派の連中などが日共の指導下にある日中友好協会とは別組織を設立し、自分達が日中友好協会の活動を中核で担い引き継いでいる「正統」組織だとして「日中友好協会(正統)本部」を名乗り、設立したのである。
 現在は(正統)の文字を取り「公益社団法人 日本中国友好協会」の名称で活動を続けている。画家の平山郁夫が第4代会長だったことでも知られており、現会長は元伊藤忠商事会長の丹羽宇一郎で、2015年6月から彼が就任している。

 「電話帳に載っていると思うけど。分からなかったら中国物産展の時に訪ねて行きはったら」

 (中国物産展か。そう言えば四越デパートの催事場で開催中という案内を見たような気がするな。もし、やっていれば、そこで接触してみるか)

 大阪から四国に戻った後、早速、日中友好協会(正統)への接触を試み、まず電話帳を開いてみた。載っているか載っていないかは5分5分だろうと思っていたが掲載されていた。
「もしもし、日中友好協会ですか」
「はい、そうです。こちらは日中友好協会正統本部ですよ。正統本部の方にご用ですか」
「はい。E大の学生なんですが、大阪で毛沢東思想を掲げ活動している友人から、そちらを訪ねてみたら、と言われまして」
「私達が共産党系の組織ではないということは知っているんですね」
「はい」
「それなら分かりました。お会いしましょう。那賀根と言いますが、坊っちゃん温泉の所に店を出していますから、そこに来てもらえばいいですよ」
「あっ、そうですか。私は坊っちゃん温泉のすぐ近くに下宿していますから、近いですね。坊っちゃん温泉に行けばすぐ分かりますか。お店の名前はなんと言われますか。目印が分かれば探せるんじゃないかなと思いますが」
「坊っちゃん温泉の電停から商店街の中を通っておいでると路地がありますから、その路地の所に車を止めてたこ焼きを売ってるから分かるでしょう」

(えっ、たこ焼き? 車で?)

 日中友好協会の幹部とたこ焼きの関係に少し違和感があった。大阪なら店舗でたこ焼きを売っている所があるが、店舗ではなく車でたこ焼き販売というのは祭りの時などに出る露天商か、夜鳴きソバ屋のようなイメージが浮かび、「大丈夫か」という警戒心が湧いたが、今更断るわけにもいかず、「それでは明日午後5時過ぎに行きます」と伝え電話を切った。
 店のオープンは午後6時だが、その前の5時頃から車を止め開店準備をしているから、その時間に話を聞こうということだった。そう聞いて、開店準備中に時間が取れるのか、むしろ開店準備で忙しいのではないかと心配したが、奥さんと一緒に仕事をしているから、そこは心配しなくていいと言われた。

 翌日、Nは夕方まで学内でMLに参加を表明してくれた仲間達と党旗や赤白赤に塗り分けるMLの「モヒカン」ヘルメットづくりをしていたが、午後4時半になると残りの作業は仲間に任せ、大学近くの電停まで歩き、そこからチンチン電車に乗って終点の坊っちゃん温泉で降りた。

 温泉街と言っても通りの幅は狭く、両側から店が迫って来るようで、今なら圧迫感さえ受けそうだが当時の通りはどこも似たようなものだった。だが、坊っちゃん温泉の商店街は当時としては珍しくアーケード造りのハイカラで、観光客は「赤シャツ」と「マドンナ」が歩く姿を想像し、しばし想像の世界へ自らを誘ったに違いない。

 日が暮れると旅館から浴衣姿で観光客が繰り出し、珍しそうに土産物店を覗いて歩く。中には明らかに訳ありと思える男女もいたが、当時はまだ個人旅行ではなく団体旅行が中心の時代。団体が幅を利かせ2人連れはそっと肩寄せて端の方を遠慮がちに歩きながら土産物店を覗いていく。
 団体客はアルコールも入り、数を頼みに我が物顔で通りいっぱいに歩いていく。だが、温泉街の土産物店にとっては団体さんはいいお客様。1つの集団が入ってくると店内はテンヤワンヤの大忙しになる。なんといってもほろ酔い気分で気分は上気し、財布の紐も緩んでいるから、そこを狙って売り子が声を掛け、店内に誘う。

「どこからおいでたぞなもし」
「”オイデタゾナ、モシ?” 九州からオイデタゾナ、ばい」
 伊予弁が面白く、真似をして大笑いし、誘われるままに店内へ入って行く。最初の1人が入れば、その集団の大半は後に続く。その辺りをベテランの売り子はよく心得ているから上手を言って店の中へと引き込んでいく。
 その点、まだ慣れていない売り子は店の入口辺りで客と会話をするから店の入口辺りが溜まり場になり他の客が中に入れないばかりでなく、その集団以外の観光客は入りたくても入れず素通りして行く。この辺りの対応でベテランと経験が浅い売り子の違いが分かる。
 こうした光景が見られるのは夜7時以降で、Nが歩いた5時はまだ観光客の姿は疎ら。店の売り子も勝負顔ではなく、どこか間延びをし手持ち無沙汰に見えた。

 たこ焼き販売の車は心配するほどもなくすぐ見つかった。
「那賀根さんですか。昨日電話したE大のNです」
「ようおいでたな。ここで夕方、毎日たこ焼き販売をしょーるんよ。ちょっと待って。奥さんに替ってもらうから」
 そう言って車から離れると、直ぐ側の道端で立ち話になった。
「大学も今大変やわな。電話の話ではNさんも活動しよるみたいに思うたが、私は共産党員だったんよ。ずっと日中友好のために活動してきてたんやけど、文化大革命で共産党が中国と対立しだしたから共産党をヤメたんよ。共産党とは縁を切ったけど、引き続き日中友好のために活動しよるんよ。宮本顕治が権力を握ってから共産党はおかしゅうなってしもうたわな」

 この時からNと那賀根の関係が始まり、Nが大学を卒業し四国の地を離れた後も2人の交友は続いた。那賀根が緑内障を患い目がほとんど見えなくなり、色々合併症も患って入院しているから父の代わりに書きました、という娘からの年賀状が届いた年の春、Nは彼の入院先を訪ねた。
 事前にその旨、彼の娘に伝えたが「恐らくもう会話はできないと思います」と言われ、そこまで悪化しているのかと愕然とした。

 病室で寝た切りの彼に対面した時、看護婦から同じことを言われた。それでも耳元に口を近づけ「那賀根さん! Nですよ。九州から会いに来ました。分かりますか!」と声を掛けると、「あー」とか「うー」と獣のような声を絞り出すように1、2度発し、身を激しく捩ったぐらいで、最後まで言葉を交わすことは疎か、目を開くこともなかった。

 それでも目元に涙が溜まっているのを見て、来たことを分かってくれたのではないかと思い病室を後にしたが、その1年近く後、娘から「父が亡くなりました」という知らせが届いた。
                             (次回)に続く
 


(著作権法に基づき、一切の無断引用・転載を禁止します)

トップページに戻る Kurino's Novel INDEXに戻る