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N の 憂 鬱-17
ML派の旗を掲げる(3)
ー「在日」の歴史を知るー



▽「在日」の歴史を知る

 Kとの出会いはNに歴史を深く知るきっかけを与えはしたが、当時は入管法についての詳しい知識もなく、生まれてからずっと松下姓できていたのに、なぜ大学では戸籍名のKでなければならないのか、と憤ったぐらいだ。
 しかし、Kの日常はそのことで随分規制されていた。例えばN達と同じように大学立法反対と考えていても、そのことに表立って声を上げることも反対運動に身を投じることも出来なかった。
 もしデモに参加し逮捕でもされれば即国外退去になるからで、反対運動に参加することはまさに命懸けの行動だと後に知ったが、当時は皆、大学立法や日米安保条約改定反対闘争の方に全力を傾けていたから入管法の問題までは手が回らなかった。

 Kが隣室に越してきてから毎日のようにいろんな話をしていたが、Kが積極的に朝鮮問題に触れることはなかった。彼の本箱には金日成の「主体(チュチェ)思想」の本があったが、Nに「読んでみろ」と勧めることもなかった。

 (なぜ、俺に勧めないのか)

 Nは逆にそのことに不満を感じていた。
 ある時などNの部屋に来ていた世界史専攻の1学年上の女性で、当時、Nが付き合っていた彼女には「これを読んでみて」と「アリランの歌」を読むように勧めたが、NはKから「アリランの歌」を読むように勧められたことはなかったし、その時でさえ「Nも読んでみたら」とも言われなかった。

 (なぜ、俺には勧めないのか。俺は読んでも理解できないとでも思っているのか)

 口には出さなかったが、Kから拒絶されているような気がして悲しく、腹立たしささえ覚えた。
 いつもなら「クソッ」と反発し、関連本を読み漁るはずだが、その頃はさらに首を突っ込む余裕がなかった。それでもKの置かれている立場を少しでも理解したいと考え、朝鮮の歴史や「在日朝鮮人」「在日」という呼称について考えるようになっていく。

 「在日朝鮮人」とは「第二次大戦前の日本の朝鮮支配の結果、日本に渡航したり、戦時中に労働力として強制連行され、戦後の南北朝鮮の分断、持帰り資産の制限などにより日本に残留せざるをえなくなったりした朝鮮人とその子孫」(広辞苑第5版)のことである。

 東北大学大学院国際文化研究科(比較文化論)の金亨洙(キム ヒョンス)氏は「歴史的視座から見る”在日”の呼称問題」の中でもう少し詳しく次のように書いている。
 「1910年以後、日本は朝鮮半島において土地調査事業(1910‐1918)、次いで産米増殖計画(1920‐1934)などの植民地政策を行った。その結果朝鮮半島の農民たちは莫大な被害を受け、ほとんどの生活基盤を失うことになった。
そこで生活のために、むしろ生存のために故郷を離れ日本に渡った農民たちが少なくなかった。彼らはもっとも低い賃金労働力として資本主義発展期の日本の産業を支えていった。また1937年日中戦争が勃発し、後に戦争が拡大また長期化していくなかでは朝鮮半島の民衆が半ば強制的に連行されるようになった。形式上では業者を通しての斡旋や募集などといった手段が用いられたが、朝鮮半島から日本に連れてこられるまでに逃走しないよう監視されるなど、その実情は強制連行以外のなにものでもなかった」

 Kの家族、父母か祖父母がいつ、どのような形で日本に来たのか、日本に来ざるを得なかったのかについてKの口から聞いたことはなかったし、Nもそこに触れようとはしなかった。もし、1歩踏み込んでいればKは語ったかもしれないが、その1歩を踏み込まないNにKは今ひとつ気を許さず、本心を曝け出すことがなかった。Kの防衛心からというより、結局「お前には分からない」という言葉で表される「諦め」の気持ちでもあった。
 それをNは「壁」と感じていたが、2人の間に横たわる「壁」を取り払うためには、もっと多くの時間と突っ込んだ議論が必要だった。その結果、互いに傷付くことがあったとしても。
 だがNもKもその先に見えるものに確信が持てず、互いにさらなる1歩を踏み出せず、その手前で留まることで最悪の事態を避けようとしていた。無理にさらなる1歩を踏み込まず、ここまでに留まっていれば互いに「理解ある友人」の関係でいられるからである。
                                    (4)に続く


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