N の 憂 鬱-15
〜サルトルの実存主義に傾倒する(3)


▽毛沢東の恐れが中ソ論争を

 Nがサルトル哲学に興味を持った背景にはもう1つ、当時の国際共産主義運動の分裂も影響していた。
 ボルシェビキは社会主義革命を成し遂げソビエト連邦(ソ連)が成立しはしたが革命の国際的伝播はなく、レーニンの後を継いで共産党書記長に就任したスターリンは生まれたばかりの社会主義国家、ソ連を守る道を選んだ。それに反対したのがトロツキーで、彼は1国だけで社会主義国家を守るのは難しく、世界各国で社会主義革命がを起こすことが、結果として社会主義国家、ソ連を守ることに繋がると主張し、スターリンと対立した。

 トロツキーは世界革命を主張しはしたが、必ずしもスターリンの1国社会主義を認めなかったわけではない。過渡期の形態として容認していたが、スターリンの理論から官僚主義に陥る危険性を見抜き、その点を鋭く批判した。
 実際スターリンが権力を掌握して以後のソ連国家はその通りになったのだからトロツキーの見方は正しかったわけだが、ソ連共産党内での権力闘争に敗れ、権力を掌握したスターリンによって「反革命・反党分子」としてソ連共産党から除名・追放処分を受け、後に亡命先で暗殺される。
 以降、世界共産主義運動の主流派(スターリン主義派)に対立する共産主義者は「トロツキー主義」「トロツキー主義者(トロツキスト)」であり「反革命・反党分子」というレッテルを貼られ、ソ連国内のみならず国際共産主義運動からも排除され、敵対視された。

 スターリン死後、フルシチョフによるスターリン批判(「個人崇拝とその諸結果について」と題する報告、俗にいう「秘密報告」)が1956年のソ連共産党第20回大会で行われ従来の方針は見直されるが、日本共産党は相変わらず自分達に反対する勢力を「トロツキスト」と呼び続けている。
 要はトロツキー主義の何たるかはどうでもよくて、自分達に反対する勢力はすべて「トロツキスト」であり、「極左冒険主義」であり「反革命」勢力というわけだ。

 フルシチョフのスターリン批判は国際共産主義運動の正常化をもたらすどころか共産主義陣営内に深刻な対立を生むことになった。フルシチョフが「平和共存路線」を掲げたことに対し、毛沢東の中国が激しく反発し、それがやがてマルクス・レーニン主義の理論、政治、世界情勢の分析など多岐に渡りソ連と中国の激しい対立を生み、互いを「教条主義」「修正主義」と罵り合い、中ソ間で国境を巡る武力衝突まで起きていた。

 中ソ対立は様々な側面が複雑に絡み合っているだけに一言で説明するのは難しいが、毛沢東個人の「嫉妬」「恐れ」の感情が裏にあったことも見過ごせない。
 毛はフルシチョフの「秘密報告」でスターリンへの過度な権力集中と個人崇拝批判が行われたことで、死後、自分もそういう目に遭わないかと密かに恐れたのだ。それが後の「文化大革命」発令への伏線になるのだが、当時、N達にはその認識はなかった。
 スターリンは猜疑心が強く、特に晩年になるほど猜疑心は強くなり、側近達を次々に「反党分子」として逮捕、処刑したが、毛沢東も自分に反対する者達を次々に排除していった点ではスターリンと実によく似ている。
 政策面でも両者はよく似ているが、毛がスターリンを真似たと言った方がいいか。例えば毛の「大躍進政策」はスターリンの「5カ年計画」の中国版と言ってもいい。スターリンが「農業の集団化(コルホーズ)」を実施したのに対し、毛は「人民公社」を各農村に作ったが、いずれも失敗して後に残ったのは多数の餓死者だった。毛はスターリンの失敗という歴史に学ばなかった。
 それにしてもなぜ、独裁者は同じようなことを行うのか。

 「理論と実践の分離はその結果として、実践を原理を欠いた経験主義に変え、理論を純粋で凝結した知に変えてしまうことになった。他方では自らの誤謬を認めようとしない官僚政治によって押し付けられた計画化がまさにそのために現実に加えられた一種の暴力となり、役所の中でしばしばその地域を離れて国民の将来の生産が決定された」(サルトル「弁証法的理性批判」)

 社会主義国家という共に同じものを目指しながら対立し、互いに批判し合い、いがみ合うのはなぜなのか。そもそもマルクス主義にサルトルが唱えるように欠落した部分があるのか、あるいは国家の形態に関係なく独裁という体制が問題なのか。
 後者なら封建社会における独裁も、資本主義社会の独裁、それは企業経営における独裁も含まれるし、プロレタリア独裁、労農独裁も同じで、支配者や支配階級が変わっただけでは旧来の差別構造が新たな差別構造に置き換っただけで差別の解消にはならない。

 レーニンは「国家と革命」の中で「国家は死滅する」と書いたが、それは「死滅させなければならない」という意味だ。だが、そこに至る道筋や、その後のことについては何も書いていない。
 なぜ、レーニンはそこについて書かなかったのか。「”革命の経験”をすることは、それについて書くことよりも愉快であり、有益である」(「国家と革命」第1版のあとがき)からだ。彼は理論家ではなく革命家であり、焦眉の課題はロシア革命を成功させることであり、そこに全力を傾けていたからだ。
 歴史に「if(もしも)はない」とはよく言われることだが、それでも、もし、国家死滅の過程と、それ以後について彼が書いていれば、世界は少し変わっていたかもしれない・・・。
 国家を完全に死滅させたわけではないが、国家という枠組み、足枷を少しでも取っ払おうとする試みは後になって現れた。EU(欧州連合)は経済分野に限った話ではあるが従来の国家の枠を一部取り払うことに「成功」しつつあるかのように見えたが、今また元の世界に戻るのか、先に進むのか、今暫く現状維持で行くのかの岐路に立っている。
 「歴史に意味があるかどうかは問題ではない、歴史に意味を与えることが問題なのだ」(サルトル
                                          (次回)へ続く


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