N の 憂 鬱-15
〜サルトルの実存主義に傾倒する(2)


 「ぼくはサルトルとボーボワールの関係に憧れますね。ああいう女性に出会いたいですね」
 サルトルの「実存」についての哲学的な話を突っ込んでする気分ではなかったので、話の方向を少し変えた。
「お前はロマンチストだね」
「そうですか。ぼくはああいうのって好きですね。結婚という関係に縛られるわけではなく、互いを独立した人間として認め、切磋琢磨していく同志のような関係。理想的だと思いませんか」
「同棲か・・・。2年間の"契約結婚"だったみたいだね」
「そうですね。でも、サルトルの方はその後、結婚したかったみたいですが、ボーボワールに断られたんですよね」
「そういえばお前、社研に入ってきた新しい娘、ドイツ語専攻と言ってたか、あの娘、口説いたか」
「はい。中西さんがあまりにも、あれはいい、というものだから」
「そうか、口説いたのか。まあ、それはいいわ」
 一瞬、口元が緩んだが、それ以上突っ込むことはなく、サルトルの話に戻った。

「ノーベル文学賞の受賞を拒否するなんてカッコいいと思わないか」
 1964年にノーベル文学賞受賞が決まった時「作家は自分を生きた制度にすることを拒絶しなければならない」と、サルトルは受賞を拒否したのだった。拒否したのはノーベル文学賞だけでなく、その数年前にはレジオンドヌール勲章の受賞も辞退している。
 賞を貰いたい人間が多い中で一切の権威付けを拒否するサルトルの姿勢は新しい知識人像であり、Nのみならず多くの同時代人に影響を与えていた。
 後世、ノーベル文学賞受賞候補の下馬評に何度も上がりながら、ついぞ受賞できず、ついに自分の方から「ノミネート辞退」を宣言したり、60代後半になってからやっと社会的発言をしだした日本の作家がいるが、サルトルとは比ぶべくもない。

 そうか、私はザイン的人間か−−。
中西の言葉を聞きながらNは自分のことを考えていた。
「must」で理想を追い求め、それに向かって突き進むタイプではたしかにない。「流される」わけではないが、「流れに身を任せる」ようなところはある。「波間に漂っている」という表現の方が正しいか。いや、ただフワフワと浮いているわけではない。「流されている」のと「流れに身を任せる」のとは違う。例えば水鳥。離れて見ていると、水に浮かんでいるだけのように見えるが、水面下では足を動かし、ある時は流れに乗り、またある時は流れに逆らったり、流れを横切ったりしながら、そこに「在る」。
 実存とは言うなら点の連続ではないか。その瞬間、瞬間、選択しながら存在をかけて生きていく。そう「人間は自らがつくったところのものになる」(「実存主義とは何か」)のであり、結果に責任を持たねばならない。そんな生き方ができるか。
 Nはそんなことをぼんやり考えていた。

 「中西さん、鎌本さんってどういう人ですか」
「どういう人かって。面白いことを聞くな。見た通りの奴や。お前さんもいつも会っているからよく知っているやろ。何が知りたいんや」
「いや、鎌本さんって社研の読書会でもレジュメにグラムシの言葉を引いていたけど、発表の時にはグラムシに全く触れないし、レジュメの内容も難しくてよく分からないんです。なんで、この言葉がここに引用されているのだろうと。読書会の範囲内をまとめているわけでもないし、レジュメで書かれていることと読書会の内容がどうリンクするのか。頭いいんだろうな、と思うんですけど、会っている時でも真面目な話は全然してくれないし」
「あいつは頭いいからな。天才型っていうか、人前では全然頑張っている姿を見せず、人が見ていない所や寝静まった後に勉強しているような奴がいるやろ。ああいうタイプじゃないかな、あいつは。照れ屋だしな」
 照れ屋と読書会での発表がどう結び付くのか分からないが、中西が言わんとすることはなんとなく分かるように「思えた」。
「そうですか。ぼくとしてはもう少し色々教えて欲しいんですけど。島さんは取っ付きにくく最初は怖かったけど、色々教えてくれましたよ。鎌本さんは島さんとは全然違いますよね」
「そうだな。あいつはどこか得体が知れないというか、分からないところがあるな。その点、島君はクソ真面目なタイプだから」
 その日はそんな話をして中西と別れたが、中西がサルトルを読んでいたことは少し意外だった。
                             (3)に続く
 


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