N の 憂 鬱-15
〜サルトルの実存主義に傾倒する


Kurino's Novel-1                    
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Nの憂鬱〜サルトルの実存主義に傾倒する
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▽サルトルの実存主義に傾倒する

 1年半の一般教養課程が終わり専門課程に上がる時、編学部試験を受け哲学に進んだNだが、その半年くらい前からジャン・ポール・サルトルに傾倒し、彼の著作を読み耽っていた。
 サルトルはフランスの哲学者だが小説や戯曲も数多く著していて、それらは人文書院から「サルトル全集」として出版されていた。Nは「実存主義とはなにか」「存在と無」「弁証法的理性批判」などの哲学書だけでなく「出口なし」「汚れた手」などの戯曲や小説も読み進めたが、サルトルの代表作「嘔吐」だけは一気に読み進むことが出来なかった。途中で苦しくなり目眩を覚え、「嘔吐」したくなり、投げ出してはまた読みということを何度か繰り返していた。結局、読み終わるまでに1年余りがかかっていた。

 サルトル哲学に惹かれたのは当時、社会科学研究会(社研)の先輩達は多かれ少なかれマルクス主義者かマルクス主義にシンパシーを感じる者達だったので、皆と同じものはイヤだ、違うものが欲しい、と駄々をこねる子供みたいに他の哲学者を探し、サルトルの実存主義に出会ったようなところがあった。
 サルトルが指摘するように当時、マルクス主義は硬直化しており、それは主にスターリン主義によるものではあったが、唯物論の部分が強調されるあまり「主体としての人間」が欠け落ちていた。そこをサルトルは指摘し、自らの哲学で欠け落ちたミッシングリングを補おうとしていた。

 実存主義には2つあり、1つはハイデッカーやキェルケゴールなどが唱えるキリスト教実存主義であり、もう1つが無神論的実存主義だ。サルトルの実存主義は後者だったが、彼はマルクス主義を評価していただけでなく自らの実存主義を「マルクス主義に対立してではなく、その余白に発達したものである」(弁証法的理性批判序説)とさえ述べている。
 サルトル実存主義はマルクス主義と近い関係にあるというわけで、そのこともNを近づけた要因でもあった。

 「実存は本質に先立つ」「主体性から出発しなければならない」「即自と対自」の概念などはNにとって新鮮で、ひたすら理論をこねくり回すだけで、実践を伴わない学者ではなく「アンガージュ/アンガージュマン」(社会参加)の必要を説き、行動する哲学者、サルトルを知れば知るほどサルトルに惹かれて行った。
「哲学は社会の運動と一体をなしている」
「理解するとは変わることであり、自己の彼方へ行くことである」
「実存主義は知の余白に生まれた寄生的な体系」だと自らの哲学を定義づけ、硬直したマルクス主義に柔軟性を取り戻させようとしていたが、当時のヨーロッパで幅を利かせていたマルクス主義(実はスターリン主義)者にサルトルの声が届くはずもなかった。

 だが、マルクス主義者の中にも似たような考えを持つ者はいた。それはスターリン主義者でも、スターリンと対立しソ連から追放され、後に暗殺されたトロツキーでもなく、日本のマルクス主義哲学者、梅本克己である。彼はサルトルとは全く逆方向からのアプローチだったが、マルクス主義に「主体」を取り戻そうとした点ではサルトルと似ていた。

 「お前さん、サルトルを勉強しているそうやね。おもしろいか」
社研の先輩で法律専攻の中西がいつものようにニコニコしながらNに話しかけてきた。
「う〜ん、面白いかと言われると困りますけど、まあ、面白いですよ」
「いや、実はな、俺も少し読んだことあるんや」
「しかし、なんやなあ。人間には2通りあると思えへんか。ザイン的人間とマスト的人間の2つが」
「えっ、"ザイン"ってドイツ語の"sein"ですか」
「そうや。麻田さんなんかは"マスト"で動いてる。"ねばならない"というやつやはな。まあマルクス的な奴は大体"マスト"人間やろ。その点、俺とかお前はどちらかというと"ザイン"人間や。違うか?」

 中西が"ザイン(sein)"とドイツ語で言い、"マスト(must)"を英語で言うのが少しおかしかった。ドイツ語で統一するなら"must"ではなく"sollen(ゾルレン)"と言うべきだが、言いたいことは伝わったし、ドイツ語をそれほど知らなくても「ザインとマスト」と言われた方がなんとなく分かるような気がした。

 「"sein"は英語で言うと"is"か。そこに"在る"、"存在"だわね。"ねばならない"で行動するのではなく、"そうなっている"という感じ。マスト的人間が目標に向かって頑張って走っている、髪振り乱してね。ザイン的人間にはそういう感覚がない、そう見えない。一生懸命に走っているように見えない。石が転がっていくみたいなものだ。気が付けばそこに"在った"という」

 恐らくサルトルが唱える「実存」のことを言っているのだろうと思った。きっと中西も社研の勉強会などで議論される唯物論やマルクス主義に納得できない部分、どこか馴染めないものを感じているのかもしれない。
 そういえば、勉強会に出席はするが議論に積極的に参加し発言するわけでもなく、いつもニコニコしながら皆の発言を聞き、時々短い発言をするだけだっただけに、哲学めいたことを話す中西をNは別人を見ているような気持ちで見つめていた。
                             (2)に続く
 


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