N の 憂 鬱-13
闘争委員会を結成し、哲学科ストに突入する(4)
ー時計台放送が全国に届けた狼煙ー



▽時計台放送が全国に届けた狼煙

 1969年は東大安田講堂の攻防戦で幕を開けた。N達地方の大学生はTVの実況中継を固唾を飲みながら凝視していた。
 真冬に四方八方から機動隊の放水車による放水を浴びながら安田講堂の上から投石し、火炎瓶を投げて抵抗する学生達。赤色、白色、水色・・・様々な色のヘルメットが見える。ヘルメットの色は彼らが所属しているセクトを表しているが、ブント、中核、社青同解放派、ML派などのセクトによる主導ではなくノンセクトラジカルと呼ばれたセクトに所属しない学生達が中心になった全学共闘会議(全共闘)が東大闘争を主導した。
 とはいえ安田講堂に最後まで残り闘ったのは各セクトに所属する学生が中心になったのは間違いない。

 安田講堂から垂れ下げられた旗には「中核」の文字が見え、旗竿を掲げ振っている中に赤白赤の順に染め抜かれたML派の旗も見える。西部劇や戦争映画で見る旗手が倒れそうになっても旗を掲げ続ける姿がダブって見える。あの旗が掲げられている限りまだ陥落していない、と勇気を奮い起させる。
 今、ウクライナ兵もウクライナ国旗が掲げられているのを見ながら、あの旗が立っている限り我々はまだ負けてはいないと勇気を奮い起しているに違いない。旗は最前線で戦う戦士に勇気を与え続ける。しかし、四方八方を囲まれた籠城戦には逃げ道がない。最後は玉砕か全面降伏か。安田講堂をバリケード封鎖し、中に残った者達は全員逮捕を覚悟した玉砕戦である。

 籠城戦、玉砕戦術がいかに効果がなく空しいものかは過去の歴史からよく知られている。戦争論でいえば、これほど愚かな戦術はない。籠城戦は外から駆け付けた味方が敵の包囲網を破り、外内が呼応して敵に当たられる時だけで、敵の包囲網の外から駆け付けてくれる味方がいなければ玉砕か全面降伏しかない。しかも敵の包囲が長引いたり、ライフラインを止められれば悲惨だ。秀吉による鳥取城の飢(かつ)え殺しや備中高松城の水攻めを挙げるまでもないだろう。

 とりわけ日本のように国土が狭い土地で取るべき戦術ではない。それが分かっているはずだが、日本の戦いに籠城戦は多い。追い詰められ、逃げ場がそこにしかなくなるからなのか、籠城している間に味方をする勢力が現れるのを待つ戦術なのか。戦国時代の籠城戦は後者がほとんどだった。しかし、昭和の軍部の籠城戦は玉砕を目的にした籠城でしかなく、結果は最初から分かっている無意味な戦いである。

 では、東大安田講堂や、その後全国で起きた校舎のバリケード封鎖はどうか。当時の全共闘闘争を「革命ごっこ」と後に揶揄する人達もいたが、批判的、あるいは自虐的にそう語る人達は往々にして闘争に関わっていないか、周辺部で付和雷同的に「参加」した者達だ。
 一方、当事者達はどう捉えていたのだろうか。68年、69年の10.21国際反戦デーを新宿で体験した人達(学生のみならず労働者、市民)の目には68年にパリで起きたカルチェラタンを学生が占拠、解放区にした「フランス5月革命」とダブっただろうし、「革命前夜」と思えたに違いない。
 それは現場を経験した者達のみが共有し得る共同幻想かもしれないが、日本だけでなく世界で起きている現象であったにもかかわらず、物わかりのいい「大人達」は「学生運動」「スチューデントパワー」という言葉で敢えて「若さ」を強調し「青臭さ」「若気の至り」の範疇に閉じ込めようとしていた。「若い時の一過性のもの」で社会に出れば変わると。
 たしかに、それはある部分で言い得ていた。卒業時期が迫ると、長髪を短く切り揃え、面接試験に臨んだ者達も多かったし、彼らが「大人」になってから青春時代を振り返って、「あの頃はワッショイ、ワッショイとやったよな」と、まるで祭りにでも参加したように言う声を耳にしたこともある。「祭り」の周辺部で「お祭り気分」を味わっていた者達ほど、したり顔で懐かしそうに語る。
 後になって「所詮は革命ごっこ」と言うのは容易いし、歴史を見れば確かにそうかもしれないが、10月21日の新宿は「革命前夜」と思わせるに足るものがあった。

  連帯を求めて孤立を恐れず
   力及ばずして倒れることは辞さないが
    力を尽くさずして挫けることを拒否する


  死者よ来りて我が退路を断て

 「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、一時この放送を中止します」

 この放送を最後に安田講堂の攻防戦は終わりを告げた。最後に放送したのは安田講堂防衛隊長でありML派の幹部でもあった今井澄によるものと言われている。
 彼の人生は数奇で、東大在学中に3度退学処分を受けたが3度復学を果たし、70年に卒業後、医師国家試験を受けて合格。都内の医療機関勤務を経て、74年に茅野市の公立諏訪中央病院に赴任。77年に安田講堂攻防戦の判決が出て静岡刑務所で服役後、80年には諏訪中央病院の院長に就任している。
 この経歴からも今井がいかに優秀な医師で皆から慕われていたかが分かる。学生運動とは言え逮捕、実刑判決を受け服役した人間が民間医療機関ならまだしも公立病院の院長に就任するというのはよほどの人望がなければありえない。
 88年に院長を鎌田實に譲り、その4年後、日本社会党から参議院選挙に出馬し当選。胃がんを患ったが2002年まで議員活動を続け、その年の9月に亡くなったが、今井が安田講堂から放送したように、彼らに「代わって闘う同志」達が次々に地方大学で狼煙を上げていった。
                            (5)に続く


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