N の 憂 鬱-13
〜闘争委員会を結成し、哲学科ストに突入する(1)


Kurino's Novel-13
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闘争委員会を結成し、哲学科ストに突入する
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▽文理学部改組

 Nが入学した頃、大学は様々な問題を抱えていた。最大の問題は文理学部の改組である。戦後、各府県に1総合国立大学が設立され、新制大学は狭い専門分野に分割された学部編成ではなく、総合的な知識を身に着ける学部が要請され文理学部が設置された。
 Nが入学した大学も工学部、農学部、教育学部のほかに文理学部があり、文理学部は理系の理学専攻と文系の文甲と文乙で編成された。さらに文甲は英語、ドイツ語、国文、史学、哲学専攻で編成され、文乙は経済と法律専攻という具合だ。

 団塊の世代が大挙して大学に進学するようになり始める頃と相前後し、産業界は「使える人材」の育成を大学に求めるようになり、文部省もそういう声に応えるべく大学改革に乗り出した。そして国公立大学は工学部を、私立大学が経済、法学関係の学生数を増やしていったが、それまで比較的多くの大学に存在した文理学部をどう改組するかが問題で、それぞれの大学で対応が分かれた。
 ほぼ共通していたのは自然科学系を理学部として独立させることぐらいで、人文・社会に対してはすんなりとは決まらなかった。

 Nが通っていた大学も文理学部の改組で揉めていた。既定事実になっていたのは理学部の独立ぐらいで、残りの専攻科をどう纏めるかで激しい綱引きが行われた。法文学部と理学部の2分割案が優勢だったが、経済系の教授陣の中には経済学部の独立を主張する者もいた。
 仮にそれが叶わなければ法経学部にしろとあくまで「経済」の文字を入れることを強固に主張していたからなかなか纏まらない。たしかに社会の求めは経済重視に傾いていたから、彼らの主張をエゴとまでは言い切れないが。

 その一方で哲学は存続すら危うい立場に置かれていた。教授会でも「哲学廃止」を唱えられるなど、一時は廃止やむなしというのが教授会の雰囲気だったが、辛うじて免れたのはNのように他学部から転学してでも哲学を学びたいという学生が5人もいて、その年の哲学専攻生が8人と急増したことも影響した。もし、例年通り2人か3人だったなら、ほぼ間違いなく哲学は学科からも専攻からも消えていただろう。
 擦った揉んだの末、結局、新学部名は法文学部で決着し、経済学部にも法経学部にもならなかったが、在校生にとって学部名の変更は重要時ではなかったし、それまでと変わらぬ日常が続いていた。

 相変わらずNは朝温泉に浸かってから授業に出ていたし、時にはYと土曜日に街に出かけたりもしていたが、概して真面目な学生生活を送っていた。
 そんなある日、いつものように小森教授の部屋に入ると
「今度、新しい先生が来られます。まだ若い先生ですし、名大を卒業されているので、あなたにとってはいいのではないでしょうか。大学院の受験勉強も相談されるといいと思いますよ」
 と教授から伝えられた。定年退官す北教授の後釜らしい。
 Nには嬉しいニュースだった。早速、教えてもらった新任助教授宅に挨拶に出向き、大学院受験のことなど話し、今後のアドバイスをお願いしたりした。

 新しく赴任してくる教官がいれば去る教官もいた。社会学担当の助教授はこの地を離れ他大学へ移って行った。東大出の優秀な先生で、地方の大学には勿体ないというのが小森教授の評価だったが、社会学専攻の学生が1人しかいないのでは力も入らないだろうし、もっと自分を必要としてくれる場所で能力を発揮したいと思うのは当然かもしれない。
 N自身、その助教授の授業は一度(半期)しか受けたことがないが、それでも新進気鋭の若手助教授という印象を受けていた。こういうのを宝の持ち腐れというのだろう。
 夏目漱石が四国の旧制中学を去り、九州の旧制高校に赴任していったのと同じで、大学にとっては大きな損失と思ったが、N自身も社会学の専攻生ではなく哲学の周辺学問として社会学の講義を受講した程度だから、どうしようもなかった。
                            (2)に続く


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