反対闘争の現地、佐世保では学生を先頭に労働組合員、市民も加わり、文字通り実力阻止の激しい反対闘争が展開されていく。
17日早朝、博多駅から急行「西海」に乗り込んだ三派系全学連は途中の停車駅、鳥栖(とす)で労働組合等が用意した角材を大量に積み込み、佐世保駅に午前9時45分に着くと、そのまま米軍基地に隊列を組んで向かう。それを阻止しようと道路上に障害物を置いた(バリケードを敷き)阻止線を張って待ち受ける機動隊。実力で突破しようとぶつかっていく全学連学生達。平瀬橋の上で市街戦さながらの激しい攻防戦が繰り広げられる。
放水と催涙ガスでずぶ濡れになり傷付きながらも機動隊にぶつかって行く学生達。一時は装甲車を分捕ったりもしたが、阻止線を突破して米軍基地に突入することができなかった。
目に余ったのは機動隊の暴力で、学生はもちろんのこと市民、報道関係者にも見境なく警棒、警杖を振り下ろし、傷付き市民病院に逃げ込んだ学生を追っかけて病院内に入り、特殊警棒を振り下ろし、殴り、蹴り、引きずり出して逮捕していく。
当時、市民病院玄関前で取材をしていた朝日新聞記者も機動隊から激しい暴力を受け入院した。デモの最前列でもなければ角材(ゲバ棒)を所持していたわけでもなく、市民病院という後方、戦地で言うなら赤十字の旗を掲げた病院で「新聞記者」の腕章を腕に巻いて取材していたにもかかわらず警棒で乱打され負傷したのだ。
当時、平瀬橋、佐世保橋で機動隊と激しく衝突しながら、水位が下がった佐世保川を渡り、鉄条網で囲まれた柵をよじ登り米軍基地に果敢にも突入した中核派全学連の学生が2人いた。
その内の1人、水谷保孝氏の文章が山中武史氏のブログ「野次馬雑記」に載っていたので以下、引用・転載する。(水谷、山中両氏の承諾済み)
「間断なく発射される催涙弾、佐世保川の水(佐世保湾から入り込む海水なのだ)をくみ上げ催涙剤を混ぜた大量の放水、特殊警棒の乱打、背後からの襲撃、倒れた者への集中的な攻撃、報道陣や市民への無差別の警棒乱打、市民病院や民家への見境のない乱入という常軌を逸した警察暴力との闘いだった。
全学連は、警棒で殴打され、催涙弾で撃たれ、催涙液で眼を傷め、体中が火傷する状態になりながらも、血を流し、炎症の痛みをこらえ、涙を流しながら前進をくり返した」
催涙ガスを混ぜて放水するように指示したのは後藤田正晴・警視庁次長(当時)である。
放水と聞けば水を浴びせかける程度と思う人もいるかも知れないが、高圧放水は武器と同じでまともに受ければ人間は吹き飛ばされてしまうぐらい威力がある。しかも川の水に催涙剤を混ぜて放水するわけだから警察権力による暴行致傷と言ってよく、「エンタープライズ寄港阻止闘争事件」裁判で弁護側は以下のように主張している。
「同月17日、18日、19日、21日には、本件の紛争に際し、無抵抗の被告人ら学生のみならず、デモ行進中の一般労組員、報道関係者および一般市民等に対し、警棒、警杖等で乱打したり、足蹴りにする等の暴行を加えたうえ、きわめて毒性の強い催涙液や催涙ガスを、被告人ら学生等に大量に浴びせ、しかも右催涙液を放水するにあたり、大腸菌等を多量に含んだ不潔きわまりない佐世保川の水を使用し、その結果、被告人ら学生のみならず、前記多数の者らに、種々の傷害を与え」たのは「特別公務員暴行陵虐罪および同致傷罪に該当」すると。
最初の内、学生の行動を批判的に見ていた市民も機動隊の暴力行為を目の当たりにし「警察こそ暴力団だ。学生こそ正義だ」と叫び、立ち上がり、労組等のデモに参加する市民の数が膨れ上がっただけでなく、真冬に放水を浴びずぶ濡れになった学生達に衣類を無料で提供したり、カンパをする商店主や市民も多かった。
すでに九州の大学で大学院生になっていた「風呂敷」も佐世保に行きデモに参加していた。その時に知り合ったSSKの社員から「今夜泊まるところがないんだろう。うちに泊まっていけ」と言われ、一夜の宿を借してもらったのは嬉しかった、と後に回想している。
(次回)に続く
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