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思考の短絡化が「タイパ」に繋がり、犯罪を生む。(1)


栗野的視点(No.791)                   2023年3月3日
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思考の短絡化が「タイパ」に繋がり、犯罪を生む。
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 「タイパ」という言葉をご存じだろうか。最近、Z世代の間で流行っているらしい。
 「Z世代」と聞いてまず頭に浮かんだのはウクライナに進攻しているロシア軍の戦車に書かれた「Z」の文字だった。では「タイパ」はロシア語で何を意味しているのだろうか。それともロシア語ではないのか。ロシア語でなければ何だ。
 「タイポ」なら「キーボードの打ち間違い、入力ミス」のtypographical error(タイプミス)のことだから「タイパ」はタイプミスをする人のことなのかと思ったりしたが、いずれも違った。

 まあ、こんなことを言えば「おじ(い)さん」とバカにされそうだが、こちらはもう後期高齢者だから、今さら若者におもねって若者言葉を使おうとも倣おうとも思わないが、ことが人類の未来にも関係あるとなれば無視することもできない。

 「コスパ」がコストパフォーマンスの略語(短縮語)なのはすでに一般社会に定着した感があるが、「タイパ」はそれと同じような使われ方をしており、タイムパフォーマンス(時間効率)を短縮した略語らしい。
 最初に使いだしたのはZ世代で、それが世代を超えて広がり(広げたのはマスメディアだが)、ある種の「社会現象」になっているというから驚く。

 なんでもかんでも短縮したり、省略すればいいわけではないと思うが、とにかく最近やたらと短縮語、略語の類が流行る。それも流行らしているのは若い世代、Z世代という。
 と言っても彼・彼女らが流行らせようとしているわけではなく、内輪で使っているものをメディアが取り上げ「拡散」しているだけであり、つくづくこの国のメディアは、と思ってしまう。

 因みに「Z世代」という命名は日本独自かと思えば、そうではなかった。ミレニアル世代のことを欧米で「Y世代」と言い、Yの次だからZと付けられたらしい。アルファベット順に命名しているとなればYの前は何だったのか、そもそもA世代というのはあったのかどうか分からないが、Zはアルファベットの最後の文字。では、その次はなんと呼ぶのかと思えば、次からはギリシア文字に変わり、アルファ、ベータとなるらしい。

 昔から若者言葉というのはあったが、ある年齢に達すると、そういう言葉は使わなくなったものだが、いつの頃からか若者が大人になってもそうした若者言葉を使い続けているだけでなく、逆に大人が若者言葉を敢えて使い始めだしている。
 こうした現象は昔なら若者におもねっているとか、下流化と言われたものだが、今や上流化・上級化はなくすべてが下流に向かう下降現象が起きている。
 これは大きな問題だと思うが、メディアもそのことを指摘するどころか、むしろ下流(下降)化、短縮化を流行らせようとさえしているように思える。

 なぜ、大きな問題か。それは思考と密接に関係しているからだ。人間は言語で思考する。例えば「あお」と言った時、日本人は「青」「碧」「緑」「藍」「蒼」を想像し(思い浮かべ)、その時の情景に最も相応しい言語・文字を使ってきた。
 ところが近年、この区別がつかない人が増えてきた。「あお」というと「ブルー(blue)」1色しか想像できない。緑色も「あおいろ」と表現していたことを知らない世代が増えてきて(欧米化され)、信号機の「青」は「青」ではなく「緑」だと言い、それを認める教師や社会がある。

 そこで「一口に”あお色”と言っても実はこんなにたくさん色の表現があり、日本人は古から使い分けてきたのだよ。それには日本の四季、季節の移り変わりがあることも関係している」と教えれば、子供の興味はかき立てられ、表現の違いや面白さを学び、国語にさらなら興味を持ち、もっと学ぼうと思っただろうが、生徒から「信号の青は青ではなく緑」と指摘され、あっさりそれを認めたばかりかメディアもそれを取り上げてしまったから子供の興味はそこで止められたばかりか、自分の感覚こそが正しいと思い込ませてしまったようだ。
 日本人のアメリカナイズが加速化されて行った頃と軌を一にしている。

 これは言い換えれば日本の大人が思考停止し、自信をなくし、若者におもねるようになるハシリといえるだろうし、以後、大人は急速に若者化(誉め言葉ではないので念のため)していった。
 それを加速化したのがデジタル化、コンピュータ化だ。ご存知のようにコンピュータは0と1で成り立っている。言い換えればYesかNoで、その中間はない。
 数学は得意だが国語は苦手、数学的思考はできるが哲学的思考はできない。記憶力は抜群だが行間を読むことはできない。

 作家の山本周五郎がどこかで女性の文章はくどい、というようなことを書いていた。特に時代小説は言葉を省いていく。省くことで読み手に想像させる、いわゆる行間を読ませる。読み手の方は書かれていない行と行の間を読む(想像する)のである。
 この対極が橋田壽賀子のドラマだ。「渡る世間は鬼ばかり」は大ヒットドラマらしいが、あれを見ていて感じたのは、この脚本家は俳優を役者に育てないということだった。
 橋田壽賀子脚本のドラマに子供の頃から出ている、えなりかずきは子役としては人気を博したが、役者としてはあのまま長台詞を読むだけではとても演技を勉強することができず、「役者」としては大成できないかもと他人事ながら心配した。
 役者というのは「役を演じる人」のことで、それはセリフをひたすら台本通りに喋る人間ではない。本来、脚本家、監督というのは役者の演技をいかに引き出すか、演じさせるかだと思うが、橋田壽賀子のように延々とセリフを喋らせるだけなら逆に俳優を殺しかねない。
                                     (2)に続く


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