栗野的視点(No.760) 2022年3月10日
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急激に逆回転している時代の歯車を止められるか。
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時代の歯車が速度を上げて逆回転している−−。逆回転に加速エネルギーを与えているのは北朝鮮やミャンマー、中国、タイ、フィリピン、トルクメニスタンというアジアの独裁・強権国家だが、そこに新たにロシアが加わり、さらに逆回転を加速させている。
「進化」と「進歩」は違う
「我々はどこに行くのか」。このテーマを私が投じたのはもう10年余り前になる。以来、我々、即ち人類は進歩しているのか、そうではないのかということを考え続けている。
1つはっきりしているのは科学は進歩しているということだ。しかしホモ・サピエンス・サピエンスはどうか。
たしかにホモ・サピエンス・サピエンスは他のホモ・サピエンス類からは進化したし、現生人はネアンデルタール人より進化した。しかし、それは進化しただけで、進歩したわけではない。ダーウィンも明らかにしたように「進化」と「進歩」は違うのだ。
ついでに触れれば「自然選択(自然淘汰)」とは「環境に適応できるものが生き残る」のではなく、結果として「環境に適応できたものが生き残った」だけで、目的的に環境に適応してきたわけではない。それがさもダーウィンの唱えた説であるかのように、生き残るためには環境に適応しなければならない、と間違って唱えられてきたのは経営学に都合がいい解釈だったからだ。「変化しなければ生き残れない」と説く政治家にも都合よく利用され、間違った解釈が広まって行った。
こう見てくると、ホモ・サピエンス・サピエンス(現生人類)は進化はしてきたが進歩していると言えるのか甚だ疑問である。
例えば古代人は現代人より劣っていたのか。進化=進歩と捉え、進化は一直線に進むと見るなら(多くはこの考えに基づいている。人類は4足歩行から2足歩行に進化し、類人猿から「進歩」した、と)、古代エジプトやインカ、弥生時代の日本人は現代人より、はるかに劣っているはずである。そうした考えに基づいて弥生時代の住居を再現したのが竪穴式だったり高床式で、食料は木の実の採取だったりする。
ところが、弥生時代の食生活は通説よりはるかに豊かだったようだということは今ではほぼ定説になっているし、古代エジプトやインカの技術に至っては我々が想像するよりはるかに高度であり、ある部分では現代人より進んでいたと思わざるを得ない。
要は進化=進歩ではないということであり、歴史は一直線に進んでいるわけではないということだ。進歩したのは技術だけで、文明が進歩したとは言えない。それどころか、技術でさえ進歩したのかどうか疑わしい。
たしかに人類は月に行ったし、コンピューターを発明し、掌に収まるように小型化もしたが、その一方で核兵器を生み出した。これが進歩と言えるかどうか。
地球の長い歴史の中で、ホモ・サピエンス・サピエンスが君臨したのはわずかな時間に他ならない。それこそ「猿の惑星」ではないが、ホモ・サピエンス・サピエンス以外の生物がこの星の主人公であったかもしれないし、その可能性は大きいだろう。
(2)に続く
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