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懲罰から更生へと変わる刑務所、変わらない警察組織(1)
「監獄法」が改正されたのは100年超後


栗野的視点(No.872)                   2025年10月1日
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懲罰から更生へと変わる刑務所、変わらない警察組織
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 「1105番」--。これが拘置所でNに付けられた番号である。以後、出所するまでNは名前で呼ばれることはなく、この番号で呼ばれることになるし、この番号でしか呼ばれない。
 その瞬間からNは「名無しの権平」、「No body」の文字通り「N」になった。誰でもない「モノ」、人格、人権をはく奪され「物」としか見なされず、物として扱われることになったのだ。

監獄法が改正されたのは100年超後

 拘置所・刑務所で入所者に番号を付け、番号でしか呼ばないことを、「刑務所内での効率を考えてのこと」と言った人がいるが、彼は人間を番号で呼ぶことがいかに人権無視、アイデンティティーを無視した行為であり、そのことは非人道的な扱いに繋がるということを一度でも考えたことがあるのだろうか。

 警察の留置場でさえ番号では呼ばない。きちんと名前で呼ばれる(留置番号を付けて番号で呼ぶ留置場もある)。それが拘置所・刑務所に入ると途端に人間的扱いではなくモノ扱いの番号である。
 拘置所に入れられているのは裁判が終わっていない未決拘禁者で、有罪判決が確定した受刑者が入れられるのは刑務所であり、刑務所と拘置所は同じ敷地内にあっても一応区別されている。
 そして拘置所に収容されている者は今後開かれる裁判で無罪になる可能性もある。にも拘わらず受刑者と同じ扱いを受けるのだから理不尽この上ない。

 これが後進国や独裁国家ならまだしも、民主主義国家を標榜する、一応先進資本主義国を自認している国で行われているのだ。
 しかし殆どの国民はそのことを知らないし、見聞きしていたとしても映画かTVのドラマの中のオブラートに包まれた映像でぐらいのものだろう。

 当然こうした扱いに対し改善を主張する声は以前からあった。だが、「監獄法」が「刑事施設ニ於ケル刑事被告人ノ収容等ニ関スル法律」(刑事施設法)と改称され施行されたのは100年余り後の2006年6月である。
 それまで受刑者達は非人道的・非人間的な扱いの下に置かれていたわけだが、「監獄法」が「刑事施設法」へと名称が変更されたからといって処遇も変わったわけではなく、処遇が真に変わるためにはさらに20年近く待たねばならないが、それは後述する。

 話は少し変わるが、戦争捕虜でさえ待遇は「ジュネーヴ第3条約」で「常に人道的に待遇しなければならない」と定められている。「捕虜を死に至らしめ、又はその健康に重大な危険を及ぼす」ことを禁止し「暴行又は脅迫並びに侮辱及び公衆の好奇心から保護しなければならない」し「捕虜に対する報復措置は、禁止する」と。

 ジュネーヴ第3条約が締結されたのは1949年8月12日だから第2次世界大戦が終わった後である。
 この条約が締結される契機になったのは第2次大戦中における捕虜への虐待があまりにも人権を無視した酷いものであったことへの反省からであり、ナチスのユダヤ人に対するジェノサイドや日本軍による中国人や欧米捕虜に対する非人道的な扱い、特に731部隊の捕虜を使った人体実験が一つのきっかけになったのは間違いないだろう。

 世界的にはこうした動きがあったものの、日本国内では逮捕者に対する戦中の扱い、特に特高(特別高等警察)の自白強要を迫る拷問、実際、特高の激しい拷問で命を落とした者は作家の小林多喜二を始め多くいるし、同じように過酷・残虐を極めた取り調べを行ったのが憲兵隊で、陸軍大尉・憲兵分隊長の甘粕正彦による大杉栄、伊藤野枝、大杉栄の甥で当時6歳の橘宗一の3名を憲兵隊本部に連行し、激しい拷問を加えて殺害し、遺体を憲兵隊本部裏の古井戸に投げ捨てた、後に「甘粕事件」と呼ばれる残虐行為などがよく知られているが、特高は戦後も活動を続け、10月4日にGHQが「政治的市民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」を出してはじめて特高は解体された。
 しかし、それで全てが改められたわけではなく特高のDNA的なものは、その後も警察組織の中に残り続けている。
                                    (2)に続く


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