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「コロナ」が変えた社会(T)
〜民主主義が崩壊し、戦時中に逆戻り(2)」


怖いのは人の心に棲む鬼

 日本人は他人と違うことをしたがらない。そのことは「横並び」「空気を読む」という言葉などに端的に表れているが「皆さん、ご一緒に」というのが好きな国民だ。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」などという言葉が流行ったのも同じで、集団行動をしたがる。
 なぜなのか。集団の中に身を置けば安全と考えるからだろう。それは人と外れた行動をすれば「村八分」にされるなどの不利益を被ったり、時には指弾されることを知っているからだ。

 今回、それが顕著に表れた。政府をはじめ行政側には「全国一律」「全国一斉に」という「要請」の形で。それを受け止める国民の側には、同一行動を取らない相手を通報したり、彼らに対する悪質な意地悪、破壊行為という形となって。
 各メディアはこれを「同調圧力」と呼び、こうした行動を取る人間を「自粛警察」と報じたが、前者はまだしも、後者は「警察」でもなんでもない。言うなら腹立ち紛れの鬱憤晴らしによる犯罪である。

 背景にはいくつかの要因が考えられるが、鬱憤晴らしは「巣籠もり」で溜まっているイライラだ。そこには自己犠牲、被害者意識も加わっている。「自分は政府や行政の要請に従い我慢して外出せず自宅や部屋に籠もっているのに、外出したり、店を開けている者がいる。そういう人間は秩序を守っていないのだから、そのことを知らしめ、懲らしめてやる必要がある」という一方的な論理によるリンチ(私的制裁)だ。

 まるで戦時中の自警団活動である。「欲しがりません、勝つまでは」と国民が一致団結して苦難に耐えている時に贅沢をしている人間はいないか、外国語を話したり、外国語の本を持っている人間はいないかと、隣組同士で目を光らせ、違反者を「特高」(特別高等警察と呼ばれた秘密警察)に通報していた当時と同じ風潮が今現れている。当時はキリスト教信仰でさえ外国の異教信仰として非難され、特高に狙われたという。
 一度一つの方向に動き出したベクトルはどんどん拡大、加速していくだけに恐ろしい。しかも、そういう行動を取る者はファッシストでも一つ思想に凝り固まった人間でも、思い込みが激しいタイプでもない。普段の日常生活では明るく、近所でも評判がいい、いわゆる「ごく普通の人」なことが多い。そのことが一層恐ろしさを増す。なぜ彼、彼女達はそういう行動に出るのか。

 人の心には善と悪という矛盾するものが棲んでいる。絶対的善人、絶対的悪人というのは存在しない。少なくとも私はまだそうした人に出会ったことがない。人というのは矛盾を抱えながら生きているのだ。ある時には善が前面に出、またある時は悪が顔を出す。
 厄介なのは善がゆっくりしか顔を出さないのに対し、悪は瞬時に心に宿り、顔を出すことだ。
 徳島県で県外ナンバー車に対し暴言を浴びせたり、あおり運転をしたり、酷いのになると投石をしたり傷付けたりしているが、こうした行為は徳島県に限ったことではなく、熊本県と鹿児島県の県境のスーパー駐車場に止めていた車が生卵を投げ付けられた例もある。
 熊本県水俣市と鹿児島県出水市の県境といえば互いに行き来している同一生活圏だ。住民達はそのことを分かっているはずだ。にもかかわらず県外ナンバー車というだけでモノを投げ付けたり、傷付けたりする。
 心に棲む悪が一瞬の内にその人を占拠し、そういう行為に走らせるのだから、ウイルスより人の心に棲む悪の方がよほど怖いと言える。
                                           (3)に続く


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