「コロナ」が変えた社会(T)
〜民主主義が崩壊し、戦時中に逆戻り(3)」


行政とメディアが煽っている

 それにしてもなぜ、このような行為に及ぶのか。熊本と鹿児島の県境と言えば過疎地である。少なくとも大阪府と兵庫県の県境とは人口の密度が違う。ウイルス感染を恐れる気持ちは分からないでもないが、もともと感染者数が少ない地域に、同じように感染者数が少ない隣県から「越境」して来ていたとしても感染の危険性はほぼほぼ(好きではないが、最近の言葉を真似てみた)ないだろう。

 それなのに今、「県ナショナリズム」とでも言うようなことが全国各地で起きている。カタカナ語が好きな誰かの言葉を真似れば「自国ファースト」ならぬ「自県ファースト」だ。
 ウイルスに「〇〇県産」と名前が付いているわけはないし、いくら今回のウイルスが新型とは言え彼らが県境や国境を意識するわけはない。いや、ウイルスは人に付随して移動するから人の移動を止めることがウイルスの移動を止めることになると言われるだろうが、県単位で分けること自体がおかしいと思わないのだろうか。まったくナンセンスな発想で、括るならブロック単位の方だろう。
 実際、私の実家がある地域は岡山県と兵庫県の県境だが、職場は兵庫県という人が多い。岡山より関西の方と行き来しているから兵庫県側で岡山ナンバーの車を見かけることは多いが、その逆は少ない。だから「県を越えての移動は自粛」と言われると県境に住んでいる人は生活が成り立たなくなる。
 どこかの知事が「生活圏での移動は認めて欲しい」と言っていたが、その通りだろう。
 時間の経過とともに少しずつ人々が冷静さを取り戻し、多角的なアプローチも見られだしたが、一度力を加えられたベクトルはさらに膨張し進み続ける。止まるのは膨張し過ぎて弾ける時で、その時まではまだ時間がかかりそうだ。

 ところで、人々の心に「怯え」と超狭義な「ナショナリズム」というベクトルに力を与えているのは何なのか。もう少し分かりやすい言葉で言えば「自粛警察」に力を与え、蔓延らせているものである。
 それは行政とメディアに他ならないだろう。誰も彼もが「もう少し我慢しましょう」「ここで気を緩めると第2波、第3波が襲ってくる」と口を揃えて「自主規制」を強いている。まるで戦時中と同じ風潮、ジョージ・オーウェルが示した「1984年」の世界が現実になっているが、そのことを指摘する声はほとんど聞かれない。

 飯泉嘉門・徳島県知事に至っては県外ナンバー車を数えたり、免許証の提示・確認で県内者のみ入場を認めるよう指示さえしている。ここまでくれば検閲だが、行き過ぎを指摘する声もほとんど聞かれない。
 因みに飯泉知事は昨年から全国知事会会長である。だからなのかどうか定かではないが、他県知事も「同調」して「県境を跨いでの移動は自粛を」と呼びかけている。TVやラジオでも連日そのことを流しているため、視聴者の頭に「県外ナンバー車は違反」と刷り込まれていく。

 以前にも指摘したが、ソフトファシズム、ソフト独裁である。気付かぬうちに、「違反者を通報せよ」「違反者は締め出せ」という方向に誘導されて行っているが、そのことを指摘する声が聞こえて来ないことがもっと恐ろしい。
 「コロナ」騒動が収まった時、我々の心はウィンストン(J・オーウェル「1984年」の主人公)が最期の瞬間に感じた「喜び」と同じになっているだろう。「精神や思考、個人の経験や客観的事実」まで支配され、「2+2=5」と党が発表すれば、「2+2=4と言える自由」を捨て、「2+2は5である、もしくは3にも、同時に4と5にもなり得る」と信じ込むようになり、「心から」党に感謝し、喜びに満ちた感情で処刑されていくウィンストンと同じに。世界中の人々が。




(著作権法に基づき、一切の無断引用・転載を禁止します)

トップページに戻る 栗野的視点INDEXに戻る

リコレ!ソフマップの中古通販サイト



ベルメゾンネット