パラダイムは変わるか、変えられるか。(1)
〜茶筅の如き生き方


 変化の兆しは見えている、日本で、世界で−−。だが、行動に移す動きはまだ極めて少ない。企業は相変わらずパラダイムを変えられず、古いパラダイムのまま拡大路線を突っ走っている。それでも未来を見通した一部の人達が違う道を歩み始めているのは救いだ。足るを知らず、奪いつくし、食いつくす、飽くなき拡大資本主義の行き着く先に待っているのは世界の破滅・・・、というのは本当に言い過ぎだろうか。

歴史はらせん形に進む

 人類が誕生したのは約5万年前。以来、一直線に進化の歴史を歩んできたわけではない。時に迂回したり、ある時は後退しながら、らせん形に歩んできている。それは「進化」ではなく「適応」の歴史であり、適応不可と判断されればこの星そのものが消滅するか、あるいはその種が滅亡するか。過去、幾多の文明がある時突然消滅したのと同じように。
 その最終局面に近づいているというのは恐らく個人的で悲観的な思い込みに違いないし、そうであることを祈っている。

 救いはパラダイムの変化を感じさせる小さな動きが散見されだしたことだ。毎日新聞は年明けから「一極社会」の連載を開始しているが、それは従来のような「脱○○」という切り口ではなく、地方の新しい動きを追いながら、パラダイムの変化を感じ取っているようだ。
 かつて「1週遅れの先頭ランナー」という言葉がやや自嘲めいて言われたことがあったが、いま地方は1週遅れなどではなく、正真正銘、次世代を切り拓く先頭を走りだしている。
 こういう時に地方創生担当になった石破茂氏はラッキーだったに違いない。彼の出身地、鳥取県八頭(やず)郡は智頭(ちず)町、八頭町、若桜(わかさ)町から成るが、智頭町の取り組みは少子化対策の大いなる参考になるはずだし、隣接する岡山県西粟倉村の取り組みは若者の地方定住、地方の産業起こしの見本になるはずだ。
 霞が関を出て出身地の田舎に帰れば、住民達が「再生」への道を教えてくれるのだから、これほど楽なことはない。もう、俯きながら喋ったり、小さな目で相手を威嚇するように、あるいは見下すように見たかと思えば、その直後に破顔一笑とでもいえそうな作り笑いをする必要はなくなるだろう。

茶筅のごとくに生きる

 大きいことがいいことなのか、拡大路線が正しいのか、頑張らなければダメなのだろうか。「頑張れ東北」より「頑張ろう東北」の方にまだ連帯感を感じるが、「頑張ろう日本」とか「頑張ろう○○」って何だろう。何を頑張るのか、なぜ頑張らなければならないのか。
 東北で目にしたのは「元気です東北!」だった。「頑張らなければ」と気を張るわけでも、「頑張ろう」と励ましたり、励まされたりするわけでもなく、普通に過ごしているという自然な感じ。これが「他力」ということではないだろうか。
 企業も同じだろう。頑張って売り上げを伸ばしたり、頑張って店舗数を増やしたり、頑張って何かをする「自力」にすがるのではなく、元気でいることこそが素晴らしいと思える世界。それをかつては「生かされている」という言葉で表現していた。
 自分の利益のために生きるのではなく、皆さんのお陰で生きている、皆のために生かされていると思える「他力」存在としての企業活動。それが求められているのではないだろうか。

 かつて取材をした人の中に「茶筅のごとく生きたい」と言った長崎の経営者がいた。茶事で使われる道具には、茶碗は誰々の作というようにすべからく銘がある。その中で唯一銘がないのが茶筅。茶碗を褒めても茶筅を褒める人はいないし、「この茶筅は誰の作ですか」と尋ねる人は誰もいない。まさに無名の存在。しかし、茶事で茶筅はなくてはならない存在であり、重要な役を果たしている。これなくして茶は点てられないのだから。
 出しゃばらず、分相応に生きる−−。いま、こういう生き方をする経営者がどれぐらい存在するだろうか。勇ましいことを言う経営者は多い。そういう時、私はいつも思っていた。未来形でなく過去形、せめて現在形で言って欲しい、と。
 こうしたい、こうするつもりだ、という未来形の話は崩れたり実現しないことも多い。もちろん、経営者たる者、謙虚すぎるのも問題だ。ホラも吹き当てればホラにならない、という言葉がある。ホラを吹くことで、自らを鼓舞する意味もあるし、その効果も認める。

 私的なことで恐縮だが、社会人に成り立ての頃、当時の社長から「ホラも吹き当てればホラにならない」と教えられたし、学生の頃は一夜漬けの理論を教授にぶつけ、論戦を挑んでいたこともある。いまにして思えば若気の至りと言うか恥ずかしい限り、穴があれば入りたい、すでに鬼籍に入られて年数がたつがもしご存命ならお詫び申し上げたい気持ちで一杯だ。
 力量の差というのは下位の者程分かるもので、互いに向き合った瞬間に相手とどれほどの差かが分かる。踏み込めば一刀のもとに切られることが分かっているから踏み込めない。しかし、上位者の方が仕掛けてくることはない。上位者は刀を構えたまま静かに待っているだけなのだ。その時間に耐えられず切り込んで討ち死にするか、刀を投げ出し「参りました」と自分の力量のなさを恥じるしかない。まるで風車に挑みかかるドン・キホーテのようなものだ。討ち死に覚悟と分かっていながら、それでも教官室を訪れては教授に議論を吹っかけていた。謙虚という言葉さえ知らず、前へ出ることこそが己を成長させることだと思って。

(2)に続く

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