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 中居・フジ騒動で感じる違和感


栗野的視点(No.846)                  2025年1月30日
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中居・フジ騒動で感じる違和感
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 突然この国を襲った「中居・フジ問題」という突風。
何かよく分からないうちに突風が台風になり日本全国を吹き荒れている感じがする。
 それにしても呆れる、といえば怒られるかもしれないが、国を挙げて大騒ぎするような問題かと思ってしまう。
 それにしても、と又々言ってしまうが、この国は「平和」なんだなと思ってしまう。
 世の中には、世界には、もっと報じなければいけない問題が山ほどあるというのに、そちらには目を向けることもせず、「中居・フジ問題」が最重大・最重要問題であるかの如くに連日取り上げ報じている。
 それってジャーナリズム?

 フジの2回目の会見を見ていると、といってもリアルタイムで見た(観るではなく)わけではなく、記事でチラ読みをしただけだが、10数時間に及んだとか、東京新聞の望月衣塑子記者が質問というよりは糾弾するように追求したとか、参加記者数が400数10人に及んだとかを目にし、デジャブー(既視感)を覚えた。

 これって中国の文化大革命当時に紅衛兵が実権派と目した人物を大衆の前に引きずり出し批判を加えた「人民裁判」や、1960年代後半に全国の学園で全共闘が行った大衆団交の景色と同じではないかと。

 紅衛兵による批判集会も全共闘運動で東大を始めとする全国の大学で行われた大衆団交も共通しているのは長時間に及ぶ「軟禁」に近い状態での批判という名の吊し上げ集会。
 当時、その1員として参加していた身ではあるが、当時からやり過ぎ感はあった。幸いといえるかどうか私が在籍していたのは地方の大学でセクト間で暴力を振るい合う内ゲバも8時間を超えるような大学側との大衆団交もなかったが、それでもエキサイトすると批判というより暴言を吐いたりする光景はあった。

 フジの2回目の会見はそれと似ている、というのが個人的な印象だった。鋭い批判は必要だが糾弾は違うだろう。
 声を荒げ相手を糾弾するのがジャーナリストの仕事ではないはず。問題を整理し追求する姿勢が必要だろう。
 その前にこの問題が皆が寄ってたかって騒がなければいけないほどの最重要・最重大問題なのか。
 最近は皆で騒げば怖くない、人だかり、行列があれば参加しなければという風潮がメディアにも見える。
本当にそれでいいのか。
それがジャーナリズムなのか。


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