フィクションが史実を凌駕し信じられていく(5)
フィクションが事実に擦り替えられる


フィクションが事実に擦り替えられる

 当時に比べて現在は情報入手手段は格段に増え、我々が得る情報量も比べ物にならない程増加している。その上、情報発信がカネになる仕組みが存在し、それを利用して楽にカネを得ようとする者も増えているから真偽不明の情報、フェイクニュースがSNSで巷に溢れ、飛び交っている。

 一方、情報の受け手側は昭和初期と比べてほとんど進化していない。インターネットのセキュリティソフトは進化していても、人間のセキュリティ能力、真偽のチェック能力は進化するどころか逆に衰えている。
 それはチェックをソフト任せ、アプリ任せにし、自らの判断能力、スキルアップを行うことを怠っているからだ。

 最近はそこを突く政治家等が現れ、フェイクニュースを流したり、間違いを一切認めない態度を取るものだから、荒唐無稽な言い分でも「もしかすると彼、彼女の方が正しいのではないか」と思う人が現れる。
 人も動物も群れやすい。群れを作りたがる。だからSNS等で呼びかける、「この指とまれ」と。

 彼らが使っている手法は時代ほどには進化していない。進化したのはSNSという手段だけで、実際にやっていることは「声が大きい」「中身より単語を重視、その単語を繰り返し声を張り上げて叫ぶ」という旧来手法。

 情報の受け手側の脳力が進歩していないから、そんな旧来型手法が通用し、威力を発揮していく。
 かくしてフィクションやフェイクニュースがトゥルー(真実)と信じ込まされ、事実に擦り替わっていく。
 そして気が付いた時には史実が塗り替えられ、新しい歴史が創りかえされている。
 今、世界はドイツでヒトラーが、日本で軍部が台頭してきた時代に酷似している、国民の意識も。
 我々は同じ歴史の繰り返しを防ぎ、歴史の歯車を前へ進めることができるかどうか。そのことが今問われている。


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