栗野的視点(No.818) 2024年2月2日
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人生の帳尻を合わせたい
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「人生100年時代」ということが唱えられるかなり前から「100歳まで生きなければ帳尻が合わない」と言ってきた。
なぜ帳尻が合わないのか、何の帳尻が合わないのか。細かいことは抜きにしてザックリ言えば、人生の帳尻のことである。
学生の頃はヘーゲルに憧れた。だから哲学に進んだ時から卒論はヘーゲルの弁証法と決めていた。なぜ、ヘーゲルだったのか。当時の哲学者の多くは早熟だったが、ヘーゲルが大学で職を得たのは40歳を超えてからなど、大器晩成型の哲学者だったからであり、そこに希望を見出しいた。継続は力なりで、歩み続ければ大器でも晩成でもなくても、そこそこなんとかなるという希望を感じたものだ。
ただ、ヘーゲルは難解すぎた。「大論理学」「小論理学」も読んだが、論理学で卒論を書くのは早々に諦めた。およそ凡人では太刀打ちできない。それでも他人の倍生きるのは無理だとしても、人生80年の頃に100歳まで生きれば、人並みにはなれるだろう。自分にはそれぐらいの時間が必要だと思っていた。
兎ではなく亀。だが、亀でも歩みを止めず歩き続けていればゴールに辿り着ける、と。
ところが、この頃、上記計画の修正を迫られてきた。理由はいくつかあるが、1つはもの忘れ、ポカミスが増えてきたこと。実はこの原稿、2度書きである。昨日、ある程度の文量を書き保存・終了し、夜、続きを書こうとしたらファイルがどこにも見当たらない。そんな時のために拡張子を「bak」にしたバックアップファイルを自動的に作成する設定にしている。
だが、いくら探してもバックアップファイルも見当たらない。散々時間をかけて探し回ったがどこにもない。どこかで操作ミスをし、ファイルを削除してしまったらしい。
そんなことはこの30年近くないし、起こり得ないことだが、ファイルが見つからないということは人為的ミス。やはり人はミスを犯すということを改めて痛感した。
もう1つは左手指の腱鞘炎。文字入力は「qwerty」方式で40年余り行っているが、最初は左手小指が、次には左手薬指が伸びなくなり、今では左手はほとんどグー状態で使えるのは人差し指と親指のみ。
となると人差し指を多用するため人差し指の負担が増え、今では第1関節のところで微妙に中指の方に曲がってきている。
こうなると文章を書けるのは100歳までどころか後数年。なんとか「Nの憂鬱」だけは書き終えたいと思っているが。
「Nの憂鬱」に関してはある読者から「なぜ<N>なのか」と質問されたことがあるが、星新一の「エヌ氏の遊園地」をはじめ、「N(エヌ)」に限らず、アルファベット1文字ははタイトルによく使われており、それぞれに持たせている意味が違うが、私の場合はなぜWでもYでもRでもなくNなのか。
勘のいい読者なら最近の配信号である程度想像がついているかもしれないが、次回配信号で、その意味に触れる予定。
それにしても今は70年前後の社会とよく似ている。違うのは若者の怒りの矛先が身近なものにしか向かないことと、TVは論外にしても当時、ジョージ秋山が「アシュラー」「銭ゲバ」で書いたような小説や漫画が出て来ないことだろう。
私はといえば、書きたいことはヤマ程あるのに指が動かず、頭が働かず、目も酷使し続けて悪く、現在の国内・国際情勢と同じく希望、展望が見出せないだ。
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