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拡大資本主義はどこへ向かうのか。(2)


グローバル競争と拡大主義

 それにしても、なぜ、大企業は道を誤るのか。弱小零細企業は真面目に頑張っているというのに。
 背景にあるのは市場のグローバル化と拡大資本主義だろう。かつて叫ばれた「地産地消」や「地域通貨」「フードマイレージ」はいまや雲散霧消、というのは言い過ぎかもしれないが、それらの声がほとんど聞こえなくなっているのは事実だ。
 代わりに大きくなっているのが市場を海外、特に経済成長著しい新興国へ求める声である。TPP(環太平洋経済連携)もその内の一つだ。
 企業は儲けなければいけない、社員を養うために利益を上げなければならない。そのためにはもっと売り上げを上げなければならないという論理の下に、拡大路線をひた走る拡大主義。
 本当だろうか。この論理は正しいのか。社会的責任、社員のためにと言いながら、企業存続のために数千人規模でリストラという名の大量解雇を行い、代わりに24時間働くロボットを導入する。これでは仮に日本国内に企業が残っても雇用は増えない。それでも自治体にとって税金収入が増えるなら、多少なりとも言い訳がたつ。まわりまわって住民に帰って来るのだからと。だが、この言葉がマヌーバー(巧妙な策略)なのは見抜かれている。納税逃れ(?)のために赤字決算にしたりしているからだ。シャープは窮余の一策とはいえ、減資して中小企業になろうとまで画策したではないか。

 非工業製品の場合はどうか。例えば農産物。高品質な農産物は海外で人気があるから競争力もある。特に富裕層向けの市場を狙いブランド化して販売すれば十分戦えると煽られ、猫も杓子も、いや失礼、コメも野菜も果物も日本酒も焼酎も皆海外市場を目指している。かつて製造業が韓国、中国へと相次いで進出した海外進出ブームの頃を思い起こさせるが、それの非工業製品版の様相を呈している。
 これは一見正しい方向のように思える。しかし、それは大量生産、大量消費の拡大経済という前提の下に言えることで、この前提がなくなれば方向は逆になる。
 本当に「大きいことはいいこと」なのか、拡大することがいいことなのか、拡大しなければ生き残れないのか。

 かつては地産地消の代表例だった日本酒は、その地方の米と水で造り、その地方で販売する地酒だった。それを変えたのが全国販売に乗り出した「灘の酒」である。
 販売エリアを広げようとすれば数量の確保が必要になるが、設備投資は工業製品より難しい。非工業製品の多くは生産スパンが長い上に、季節にも影響されるから、販売予測が難しい。即ち計画が立てにくいわけで、設備投資の判断も難しい。
 そこで行われてきたのがよその蔵からの桶買い(いまならタンク買い)だ。生産余力はあるが販売力がないところに委託生産して販売数量を確保して全国販売する。
 こうしたやり方は日本酒に限ったことではない。あらゆる分野で行われていたが、だんだん産地表示が厳しくなり、「丹波の黒豆」や「揖保そうめん」もよその産地から持って来て、そのブランド名で販売することができなくなった。

 それにしてもなぜ、そんな方法を取っていたのか。そこにあるのは「もっと、もっと」という拡大主義病である。
 この病が怖いのは感染すると拡大路線をひた走るしかなく、途中で止めることができないことだ。永遠に自転車を漕ぎ続けるのに似て、本来何のために自転車を漕いでいるのか、どこに向かおうとしているのかということも途中から分からなくなり、ただひたすら自転車を漕ぐことが目的になってしまう。
 実際に自転車を漕いで走った経験がある人なら、風を切って走る爽快感を覚えているはずだ。そしてもっと速く、より速く走りたいと思い、どんどん走り出す。その内苦しくなって足をペダルから離し、両手でブレーキをかけて止まる。
 だが、拡大主義は現実の自転車漕ぎではない。一度漕ぎ出すと足をペダルから離すことも、ブレーキをかけることもできないのだ。
 止まるのは転ぶか、ぶつかった時だけだが、スピードを出し過ぎていれば衝突や転倒のショックで落命することもある。そこまでいかなかったとしても転び方いかんでは致命傷か、あるいは壊滅的な打撃を受けることになる。

 冒頭の企業はいずれも拡大主義病にかかっていた。入居者やドライバー・同乗者の安全よりもシェアや売り上げを優先し、そのためにはデータを不正に改ざんすることも厭わないという。
 一度この病にかかれば免疫ができてしまい、後は何代にも渡って不正(会計、データ改ざん)を繰り返すことに罪悪感すら持たなくなる。それというのも偏に売り上げ、シェア拡大こそが目的、至上命令になるからである。グローバル化がそのことを加速させているのは事実だ。
 いま必要なのは立ち止まる勇気だろう。立ち止まって考えてみよう。我々はどこへ行くのか、と。
「我々は遠くから来て、遠くへ行くのだ・・・」(忍者武芸帳「影丸伝」)


 <余談>
 「我々は遠くから来て、遠くへ行くのだ・・・」は織田信長によって八つ裂きの刑に処せられる「影丸」が最後に無声伝心の法で森蘭丸に伝えた言葉である。
 この言葉、白土三平氏がイタリア共産党のトリアッティの言葉を利用したものだという説があるが、ゴーギャンの言葉からヒントを得たと氏自身から聞いたという説があり、出所ははっきりしない。白土氏は父親がプロレタリア画家であり、彼自身も日本共産党に入党を希望した時期があったりで、そういうことに当時の世相も関係し、白土氏ならトリアッティの言葉を引用したに違いないと考えられたのではないだろうか。いまではトリアッティ説の方が広く知られている。
 因みに「忍者武芸帳」は1960年前後に出版された長編漫画本であり、私は高校受験前の頃だったと思うが、夜、近くの貸本屋から借りてきて、よく読んでいた記憶がある。

 タカタの会長兼社長の高田重久氏は3代目である。「3代目が身上潰す」とは昔からよく言われてきたことだし、「栗野的視点」で「会長兼社長」の権力独り占めの危険性についても過去何度か触れてきた。タカタがそうならないことを願うが、多くの企業(中小零細も含め)にとって対岸の火事ではなく、他山の石とすべきことだろう。

#拡大資本主義の行く先は 


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