過剰生産こそが問題(4)
〜作りすぎと売りすぎの関係


作りすぎと売りすぎの関係

 目を再び販売市場に転じてみよう。いま販売に関するあらゆる市場はほぼ軒並み営業時間の短縮に動いている。24時間営業の廃止や店休日の復活をするところも出ている。
 直接的なきっかけは人手不足と働かせすぎによる労災死の問題からだが、その背景には作りすぎと売りすぎの問題がある。

 皆で渡れば怖くない−−この横並び意識が日本企業には強い。他社が24時間営業を導入すれば自社も24時間営業に踏み切らなければ客を取られてしまうと考える。Aチェーン店がドーナツをウリにすればBチェーン店もCチェーン店もドーナツに力を入れる。淹れたてのコーヒーが注目されれば、すかさず他社も真似をする。かくして日本中、どこの店頭でも同じものが並ぶ。
 これは消費者にとってメリットのようだが、そうとばかりは言えない。常に似たような商品、売れ筋商品ばかりを買わされるわけで、それ以外のものを選ぶ自由が奪われるか、非常に限られてくるからだ。このことは生産・製造者にとっても同様で、常に同質競争をさせられることになる。

 同質競争は詰まるところ価格競争である。価格以外に差別化するところがない競争はある意味楽でもある。売れている商品の真似をしておけばいいからだ。その究極の形が「100円均一商品販売ショップ」だろう。
 販売価格が安ければ製造価格も利益も安いのは道理だ。でなければ赤字になる。薄利なら数売らなければ儲からない。大量生産が必然になる。

 大量生産しなければ価格競争で生き残れない。つまり価格競争は端から過剰生産を生むシステムになっている。それが資本主義の本質と言ってしまえばそうかもしれないが、資本主義も最初から過剰生産を生んでいたわけではない。
 資本主義がローカル資本主義であった時代までは大量生産であっても過剰生産の領域にまでは足を踏み込んでいなかった。域内で需要と供給のバランスがある程度とれていたからだ。
 域内(ローカル)バランスが崩れ、供給が需要を上回るようになると新たな市場を求めて域外へ進出し始め、やがてそれは留まるところを知らないグローバル資本主義として幅を利かせてきだした。

 ローカルからグローバルへと資本主義を展開させていく大きな力になったのが自由貿易と金融商品である。
 自由貿易の主力商品が当初のモノから最近は金融という商品に移っているが、モノが形を変えても本質は先進国と発展途上国の間の不自由貿易であり、発展途上国が先進国に労働、賃金、材料を不当に搾取される関係は変わらない。

 しかし、途上国もいつまでも途上国のままでは留まらない。先進国が自らの利益を満たすため、彼の地に注ぎ込んだ設備、技術、システムを彼ら自身が身に着けていくことで、今度は彼らが先進国の競争相手として台頭していく。
 しかも、そのスピードは年を追うごとに加速度的に増していくから、生産物、特に工業生産物はどんどん溢れていき、製品と、それを生み出す過程で排出された副産物とともに地球上を灰色に覆っていく。
 そして産物は貿易相手国だけでなく自らにも工業化という「恩恵」を、自らが排出した副産物とともにもたらすから、成長著しい国の中には外出時には防毒マスクを装着したような格好を余儀なくされている所もある。

「時間泥棒」から時間を取り戻す

 「なにをそんなに急ぐのか」
「急がないと乗り遅れるから」
「なにに乗り遅れる心配をしているのか」
「発展に乗り遅れると幸せを手に入れられないからだ」
「食料生産をやめ、山を崩し土を掘り返し、コンクリートの塊を積み上げることで幸せが得られるのか」
「モノがたくさんあればなんでもできるから幸せだろう。新しいモノには夢があるではないか」
「モノが夢を壊し、幸せを壊してきたとは思わないかい」
「そんなこと思うわけない。新しいモノを手に入れることが夢を手に入れることであり、カネは富と権力の象徴だよ。まだまだ発展しなければいけない。もっとモノを作り続けるぞ」
「作れば作るほどモノは陳腐化していき、そのスピードはどんどん速くなっている。いまでは1年前のモノはもう旧式になり、捨てられ、新しいモノに取って替えられている。それでも作り続けるつもりなのかい」
「もちろんだ。作らなければ負ける。負ければ幸せになれない」
「もういっぱいモノを持っているのにかい」
「いや、まだまだ足りない。もっともっと作るぞ」
                                            (5)に続く


 


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