フェニックスリゾートと佐藤棟良氏
それはさておき、フェニックス国際観光と佐藤棟良氏である。同グループが最も脚光を浴びたのがシーガイアの建設。その中心に位置したのがオーシャンドームで、建設当時から反対運動も盛んだった。
一帯は「筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸の阿波岐原(あはぎはら)」と記紀にも詠われた黒松が生い茂った場所で、防風保安林の松林を伐採してリゾート開発することに反対する声が全国から寄せられた。
ちょっと本題から逸れるが、我が家は先祖に津山一の宮の神官だったこともあり神道で、毎朝、祓詞(はらへことば)を神棚にあげている。「掛けまくも畏(かしこ)き伊邪那岐(いざなぎ)の大神」で始まり「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊(みそぎ)祓へ給ひし時に」と続くが、恥ずかしいことに毎朝、祓詞を唱えながら「阿波岐原」が一ツ葉海岸一帯辺りとは知らなかった。
1987年、宮崎・日南海岸リゾート構想と三重県・志摩スペイン村がリゾート法の第1号認定を受け、フェニックスリゾート株式会社が設立され、松林の一部伐採、開発が本格的にスタートし、海岸に巨大なプール・オーシャンドームが出現することになった。
フェニックスリゾート株式会社が第3セクターとしてスタートしたのは林野庁が松林の保安林解除の条件として自治体の出資を求めたからだ。
この時からシーガイアリゾートは失敗する運命だった。第3セクターではなく、フェニックス国際観光による開発だったら、もしかすると破綻してなかったかもしれない。少なくともあんなに早くは。
第3セクターとなれば「親方日の丸」で群がってくる輩が増え、計画はどんどん膨れ上がっていくからで、当初描いた設計図は大きく変更されていき、後には建設・オープンがゴールになっていくからで、誰も収支計算などしなくなる。
果たして、自然破壊してまで開発する必要があったのか。私はシーガイアのプレオープン時を含め、都合3回、同社を取材したが、最後までその疑念は消えなかった。
佐藤棟良氏を中心としたフェニックス国際観光グループの思い、地元愛は理解できる。
「これは防衛的開発なんです。今、宮崎は県外資本に狙われているんです。彼らが入ってくれば乱開発ですよ。松林など関係なく開発が進められ、枯れていってしますよ。私達はホテルやゴルフ場を造ってきましたが、松林の保全・維持にも力を入れてきましたから。
なにもしなければマツクイムシにやられて枯れてしまいます。そうならないように手をかけて守ってきているんです。薬剤の空中散布をすればいいというような話ではないんです。
県外資本の連中はそんなことは知りもしないし、気にもかけずに伐採していくでしょう。でも、長年松林を守ってきた私達だからこそ、松林を守りながらなら最低限の開発でできるんです」
当時、取材した常務はそう反論したし、佐藤社長には観光県宮崎の復活は岩切章太郎氏から託されたバトンだという思いも強かったようだ。
というのも宮崎が「新婚旅行のメッカ」と言われ観光ブームで賑わったのは70年代前半まで。その後は観光客が減少する一方で、観光宮崎の復活は佐藤氏のみならず宮崎経済人の願望でもあった。。
言い換えれば、皆のその思いがシーガイアを潰す遠因にもなっていた。熱気が強すぎて、誰も彼もが冷静さを欠いていったのだ。
フェニックス国際観光グループで佐藤棟良社長とともに熱い思いを共有した人達も大半は鬼籍に入られているのではと思うが、個人的に唯一残念なのは佐藤棟良氏本人に会うことができなかったことだ。
メディアへの露出は宮崎日日新聞を除き、総じて少なかったと記憶しているから、会えなくて残念な思いをしたのは私だけではないかもしれないが、やはりお会いし、疑問を直接ぶつけてみたかったし、本音も聞いてみたかった。氏の地元宮崎に対する溢れんばかりの思いとともに。
(3)に続く
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