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「コロナ」が変えた社会([)〜「戦争を知らない大人たち」が戦争したがる(1)


栗野的視点(No.749)                   2021年9月14日
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「コロナ」が変えた社会([)〜「戦争を知らない大人たち」が戦争したがる
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 時代に呼応してというわけでも、時代が呼応しているわけでもないと思うが、本棚の奥で眠ったままになっていた「苦海浄土」を読み終わると、ジョニー・デップ主演の「MINAMATA」の国内上映話が話題になり、それと並行して「ナチスの時代」「スターリン暗殺計画」を読み終えた頃はメディアで好戦的な言辞や戦争用語が頻りに交わされるようになっていた。

 特にそうした時代を意識して読む本を選んでいたわけではない。最近の私の読書スタイルは入浴中が多いため、湿気でふやけてもいいように赤茶けた古い本を引っ張り出して読んでいる。それなのに、なぜか今の時代と妙に重なってくる本を手にしているのだ。
 本は出会いであり、その時何を読むかは偶然のように見えて、実は必然である。「苦海浄土」も「ナチスの時代」も、時代が私にその本を手に取らせたのか、時代に対する意識がその本を手に取らせたのか。
 いずれにしても今の時代はあまりにも戦争に突き進んでいった当時の社会と似ている。

「戦争を知らない大人たち」

 「戦争が終わって 僕等は生まれた 戦争を知らずに 僕等は育った」と明るく歌っていた「戦争を知らない子供たち」は今や「戦争を知らない高齢者たち」や「戦争を知らない大人たち」になっている。
 この歌も反戦歌らしいが、60年代の終りから70年代初めに激しい反戦運動を繰り広げていた人間たちからしてみれば、あまりにも牧歌的に聞こえる。時代感覚が鈍感すぎると。

 たしかに「僕等」は「戦争を知らない」世代だったが、闘いは知っていた。今ミャンマーで軍事政権に投石と棒切れというわずかな「武器」で立ち向かっている民衆と同じように、徒手空拳で権力に立ち向かい、警棒で頭を割られ、顔を殴られ、催涙弾の水平撃ちに合い、失明したり負傷した者たちは数しれない。香港の民主化活動家たちと同じように、逮捕されれば裁判も開かれないまま長期に渡り勾留された若者たちが、この国にもいたことを「覚えてほしい」。

 今70代半ばに差し掛かっている団塊の世代は、ギター片手に歌う代わりに、マイクを手に街頭で「戦争反対」を訴え、加担する権力と社会の権力構造に組み込まれることに異を唱え、11月の凍てつく寒空に放水を浴びて全身ずぶ濡れになり、歯の根が合わない寒さと空腹に打ち震えながら、それでもおかしいことにおかしいと言い、闘ってきた。
 だから戦争は知らなくても闘いは知っている。それだけに戦争用語・軍事用語を使うことに、軽々しく使われることに抵抗がある(はずだ)。

 ところがCOVID-19の流行を機に「戦争を知らない大人たち」から勇ましい言葉が次々に飛び出しだした。なぜ戦争用語・軍事用語に例える必要があるのか。それを口にする必要があるのか。勇ましさを示したいのか。
                          (2)に続く


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