崩壊するニッポン(3)
技術革新はメーカーに何をもたらしたのか(5)

概念化の成否が市場を左右する


概念化の成否が市場を左右

 日本製品が「メード・イン・ジャパン」として高い評価を得られたのは製品同士の擦り合わせ技術の高さ故である。これは多分に経験と勘がものを言う世界である。だがデジタル時代になり、「擦り合わせ」を必要とする分野は激減し、多くの製品がコモディティー化されるに従って経験と勘は無用の長物になりつつある。先行技術と思われていたものもすぐ後発組に追い付かれるし、先発組と後発組、新興国企業との間の技術的な差はどんどん縮まっている。
 かくして日本のモノづくりの優位性は崩れていったが、そうした中でも未だに高いシェアを誇っているのが日本製の一眼レフカメラである。そして、この分野は恐らく日本のモノづくりに残された数少ない砦の1つと言える。
 逆に言えば、ここを守り切れないようだと産業としてのモノづくりは日本から消えてしまうのではないか、とさえ思う。
 では、業界トップのキャノン、ニコンにそこまでの危機意識があるかといえば、それはかなり疑問だ。いつの時代でも、どの分野でも、トップを走る企業は保守的であり、新しいものへのチャレンジには臆病になる。リスクを背負ってチャレンジしなくても十分やっていけるからだ。
 もちろん、将来を見通せば現状に満足する危険性を認識してはいるが、それでもどこかまだ本気になりきれないところがあるのだろう。
 対して3番手以下の企業に残された道は少ない。現状のまま進みジリ貧になり撤退(それは往々にして死を意味するが)するか、リスクを冒してでもチャレンジして道を切り拓くしかない。

 問題はチャレンジして切り拓いた道をどの程度広げられるかだ。その場合、課題になるのが商品概念の問題である。
 概念とは「事物の本質をとらえる思考の形式」であり、「多くの事物に共通の内容をとりだし(抽象)、個々の事物にのみ属する偶然的な性質を捨てることによる」(「広辞苑」から)。
 本来、哲学的な用語だから何やら難しそうに聞こえるが、平易に言い換えれば、ある言葉で物(物事)を表現すれば誰もが大体想像できる形や内容のことを指して言うのが概念である。
 例えば車と言って空を飛ぶものを即イメージする人はいないだろう。逆に飛行機と言って地上を走るものをイメージする人もいないはず。車と聞いて人々がまずイメージするのは地上を走る箱形の4輪車だろうし、飛行機は空を飛ぶものをイメージするはずだ。
 これらはすでにそうしたものが存在しているから、つまり既存の概念があるからイメージしやすいわけで、逆に世の中にまだ存在しないものは概念そのものが出来上がってないからイメージすることが難しい。

 人々は概念があるものは受け入れやすく、概念がないものは受け入れか拒否かに対応が分かれるが、多分に拒否する方に傾く。よく分からないものは受け入れるより、取り敢えず拒否するか様子見の方が安全だからだ。
 それでも、既存の概念にない商品を目にした時、それを「面白い」と感じる人が多ければ、その商品は売れていく。逆に新しい概念がユーザーの間に形成されなければ、その商品は程なく消え去ることになる。



 ここでデジカメを例に見ていこう。最初にデジカメを市場に広げたのはカシオで、同社の「QV-10」はそれまでのフィルムカメラの概念をことごとく破ったものだった。
 液晶画面付きで撮った写真がその場で見られる、レンズがカメラ本体の左端にあり、しかも可動式で角度が変えられるなど、従来のカメラとは異なる新しいスタイルを打ち出したが、このスタイルが消費者に支持され大ヒットするとともに、消費者の間にデジカメとはこういうものだという新しい概念が形成されていった。
 これは概念形成で成功した好例である。
 ところが、最近メーカー各社から発売されるデジカメは旧概念にほぼ完全に戻り、面白くないものになってしまっている。フィルム時代に流行ったスタイルの焼き直しでしかなく、デザイン面はもちろんだが、概念もフィルムカメラとほとんど変わらない。これでは懐古趣味と言われても仕方ない。結局、カメラメーカーは古い概念に縛られ、デジタルならではの新しい概念を打ち出すことに失敗した。特に一眼レフカメラはフィルム時代から形状もほとんど変っていない。

 こうした流れはデジカメに限るものではなく、あらゆる分野に共通している。市場が飽和状態に近づけば近づくほど、逆に商品概念は古いものに戻る。懐古趣味というより経済性。長年消費者が慣れ親しんだ概念に頼るのが安全だからで、どこも冒険をしなくなる。特にトップ集団は。
 そしてこの、ある種のぬるま湯的な状態は比較的長く続くが、それはその市場が程なく終わることをも意味している。付け加えるなら、一つの文明が終わりを迎える時もこうした段階を辿る。

 冒険をするのは常に下位集団に位置する企業で、それらの企業の中から新概念の商品を打ち出すところも出てくるが、成熟市場ではシェアがほぼ固定化されており、新概念の商品が早い段階で売れることはまずない。
 むしろ新概念を浸透させるのに時間がかかることが多く、その段階で人知れず市場から消え去るか、バージョンアップを重ねることで少しずつ新しいカテゴリーとして認知されていくのを待つかだ。

 結局、体力(資本力)の問題になり、小資本の企業では新概念の商品を産み出すことはできても市場で育てるところまでは資金が続かない。
 もう一つはすき間市場商品として一定の認知度を得ながら細く長く続けていく方法で、シャープの電子ノートやキングジムの電子メモ「ポメラ」がその代表だ。
 新概念化が成功し、見事に市場を席巻した好例はアップルである。iPadでそれまでのノートPCの概念を、iPhoneでケータイの概念を覆し、それぞれに新しい概念を打ち出し、瞬く間に市場を席巻したのはよく知られている通りだ。

 市場を切り開く時に重要なのは、既成の概念に則った商品を市場に出すのか、それとも既存の商品概念を覆す新しいモノを市場に投入するのか、である。
 前者はすでに人々の中に概念があるから安心して受け入れられる。後者の場合は既存概念にない商品を市場に投入するわけで、消費者に戸惑いが生じる。その戸惑いを突き破ることができれば売れるし、拒否反応に近いものを示されれば、その商品は程なく消えていく。こうして消え去った商品は数多い。
 では、市場突破力とは何か。技術(テクノロジー)なのか。成熟社会ではテクノロジーが市場突破力となることは稀だろう。むしろユーザビリティがいいかどうかこそが重要で、それが新概念を産み、市場突破力を備える。
 ユーザビリティとは使い勝手のよさ、デザインのよさ、ワクワクドキドキする、というようなことを含み、これらを備えたものをどのように概念化するかだ。「Windows」しかり「スマートフォン」しかりだ。

ソニーの挑戦
                          (6)に続く

#崩壊するニッポン
 


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