器量のない子に譲れば会社が滅びる
過去の歴史を振り返っても、後継者育成に成功した例はあまり多くない。
権力は禅譲されるものではなく、簒奪すべきだ、と言っても、なかなかそこまでしっかりした者はいない。むしろ尻込みするか、「そんな親不孝なことはできない」としたり顔で言う人間の方が多いだろう。「だからダメなんだ」といっても仕方ない。結局、権力を譲る方が後継者をそれに相応しく育てるしかない。
そこで2つの例を紹介しよう。
1つは家康の例、もう1つはデュポン社の例だ。
まず家康の育て方。
家康は秀忠を早くから後継者として認定したわけでも、可愛がったわけでもなかった。秀忠の上には最初の正室、築山殿との間に生まれた秀康がいた。秀忠はいわば後妻、お愛の方との間に生まれた子である。つまり家康は弟の方を後継者にしたわけだ。秀康が秀吉の養子になっていたことも背景にあるようだが、ここでは本論と関係ないのでそのことは省く。
秀忠は周囲からも後継者と目された頃、家康から二度もきつく叱責されたことがある。
一度は関ヶ原の戦いに遅れた時。
家康は上杉景勝討伐の軍を出した。その隙に石田三成が挙兵するだろうと読んでの行動である。
秀忠も出陣を命じられ3万8000の兵を率い出発したが、途中、信州上田城で真田昌幸・幸村親子に行く手を阻まれた。真田軍は7、8000人。無視して家康から指示された場所へ進めばよかったのだが、行きがけの駄賃にと真田軍を相手にしたばかりに、日数を費やした挙げ句に甚大な被害まで被ってしまった。結局、秀忠軍が家康に追い付いたのは関ヶ原の戦いの3日後であり、家康に厳しく叱責されたのである。
二度目は大阪冬の陣の時。
関ヶ原で遅れた秀忠は今度こそ遅れまいと、軍を急ぎに急がせ江戸から伏見まで17日間で駆けた。自ら先頭を走り、付いてこれない供廻衆は置き去りにし、武具や荷物も持たずに、とにかく駆けに駆けた。清水に着いたときには徒士240人、騎馬34人というから、出陣というより敗走に近い有様。これでは戦もなにもできたものではない。
関ヶ原で遅刻をした時の怒られようがよほど堪えたと見えるが、羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹くとはまさにこのこと。逆に家康に怒られてしまう。
大将がそんなに慌ててどうする。大将はゆっくり戦場に着けばいいのだ、と家康から叱られた秀忠は、関ヶ原では遅れたといって怒られ、今度は速すぎるといって怒られ、一体どうすればいいのだと思ったかもしれない。もし、秀忠が愚人だったなら。
秀忠の最初の失敗は功を焦って目先に捕らわれ、本来の目的を忘れたこと。二度目はトップが取るべき行動ではなかったが故に叱責されたわけで、こうしたことは現代でもよく起こりうる。このように家康はミスを犯した時に後継者だからといって甘やかすわけではなく、厳しく叱責しながら秀忠を育てていったのである。
後年、家康は次のように語っている。
「家を継がせる子の器量はよくよく見届けてから家督を譲るようにする。どんなに生まれてきた子が可愛くても、諸臣の上に立てない器量の者に無理に家督を譲れば、後になって気随我が儘になって非道な政治をすることは疑いない。そうなった時は家中の諸士をはじめ・・・ついには国家を失ってしまうだろう。
これらのことを考えずに、ひたすら愛情に溺れてこれを廃することができなければ、大身としての資格はない。たとえば総領に生まれたといっても、その子の器量を相応しくないと思うなら必ずこれを除いて、庶子や一門の中から器量の秀でた者を選んで用い、家督を定めなければならない」
3代目将軍継承争いの際に長子継承という徳川家のシステムを作った家康だが、やはり後継者へのバトンタッチ問題は難しかったようだ。晩年になって「器量が相応しくない者に家督を継がせてはいけない」と言っているのは興味深い。
デュポン社も同族経営ながら(同族経営であるが故にというべきか)選別の厳しい基準を設けていることで有名だ。同族の「コネ」は一切通用せず、入社すると他の一般社員と全く同じように仕事をし、能力に応じて昇進していく以外にないのだ。こうした厳しいまでの能力主義がデュポン社を存続させているといえる。日本の場合、上場企業ですら創業家への「大政奉還」が行われる例をよく見かけるが、こうしたやり方を見習うべきだろう。
こう見てくると、つまるところ中小企業といえども「資本と経営の分離」を行うべきだろう。
家康が言うように愛情に溺れて、能力のない子に後を継がせると社員を失い、会社を滅ぼすことになる。
|