「ソフトな独裁」の方が怖い
ところで独裁、独裁者に対して、どのようなイメージを持っているだろうか。
・銃を手に国民を弾圧する強権政治
・政敵に対しては容赦ない弾圧を行い、暗殺・抹殺・処刑する
・密告、相互監視を通して常に国民を監視している
・政権に盾突く異見を認めない
・記録を改竄し、記録を残さず、歴史を都合よく書き換えていく
民主主義が発達していない一部の国では銃による強権的な支配がなされているのは事実だ。しかし5年、10年、20年後の未来を見る時に怖いのは、そのような独裁、仮にこうした独裁を「ハードな独裁」と呼ぶことにすると、銃によらない「ソフトな独裁」が広がっており、その方がはるかに恐ろしい。
なぜなら、銃は見えるが、非銃は見えないから、現在行われていることが独裁(化)だと気づかない(気づけない)からだ。そうと気付いた時はすでに遅しで、すっかり「ゆでガエル」になっている。
「ゆでガエル」とはなかなか面白い比喩で、湯温が一気に上がらないから気づかないということもあるが、むしろ「途中が心地いいと感じる」ことにこそある。じわじわと追い込まれ、首を絞められているのに、それを快感だと勘違いしてしまう怖さだ。
例えば街のあちこちに張り巡らされた監視カメラや通信の盗聴、盗視も、「防犯」「セキュリティー」で「犯罪を防ぐため」と言われれば、それは不快な存在ではなく心地よさを守る安心・安全装置だと思ってしまう。
実のところ監視カメラが防犯に役立つわけではない。もちろんまったく抑止に繋がらないわけではないが、もし監視カメラが犯罪を未然に防げるとすれば、それは24時間モニターを見ている場合でしかない。
そう、監視カメラは「防犯」ではなく犯行後の捜査に役立つのであり、それを「防犯」のためとするのは間違った認識である。
「防犯」に役立てるには監視カメラそのものではなく「監視カメラで撮影している」と目立つ形で注意を喚起することの方だろう。
(6)に続く
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