N の 憂 鬱-23
名前をなくした日々の始まり(10)
名前を剥奪され、Nobodyに(前)


▽名前を剥奪され、Nobodyに

 留置場を出て警察署の裏手に止められていた護送車に乗り込むと、中にはすでに4人の男達がシートに座っていた。Nの他はスリや盗人、傷害で逮捕された者達で、Nには見覚えがない顔ぶれだったから別の警察署に留置されていたと思われる。
 護送車は外から内部の様子が見えないのはもちろんだが、中から外の様子を伺い知ることはできないようになっていたから、どこをどう走っているのか皆目見当もつかなかった。
 車内には時計はないし、腕時計も逮捕時に没収されたままで時間を測ることはできなかったが、およそ20-30分走ったと思われる頃、車が一時停車し、扉が開けられるような音がした。そして10数メートルゆっくり移動したところで停車して全員が降ろされた。
 どこかの中庭のようだった。そう思ったのは玄関のような場所の前に花壇が作られ、そこに数本の木が植えられていたからだ。

「キョロキョロするな! 前の者に付いて歩け」
 護送車に乗って一緒に来た男が声を張り上げ、注意した。
建物内の照明は暗く、空気は淀んでいた。
「〇〇警察署から被疑者5名移送してきました」
 警察署から一緒に来た男がピンと背筋を伸ばして敬礼し、建物内で待ち構えていた男に声を張り上げ、命令された要件を伝え、5名に向かって「番号!」と命令する。
 1列に並ばされた者達が先頭から「1、2、3、4、5」と順に番号を叫ばされる。
 10数人もいるわけではなく、たった5人だ。頭数を数えて確認すればいいようなものだが、いちいち声に出して確認させるのが珍しくも滑稽にも思えたが、それが彼らの方法らしい。
 すると相手の男も同じように敬礼しながら「〇〇警察署から移送の被疑者5名受け取りました」と返す。

 その後、簡単な説明をされ、所持品の確認をさせられる。逮捕時に身に着けていたり所持していたもので留置される時に保管されていた物が目に前に並べられ、それらを確認の後、ここでまた保管されるわけだ。
(あつ、腕時計があったのだ。財布もある)
 腕時計をしていたことをすっかり忘れ、祖母にねだって中学生の時、買ってもらった腕時計がそこにあるのを、まるで何かを発見したように眺め、ある種の感慨に浸った。

 ズボンのベルトは留置場で外されたままだが、拘置所でも許されなかった。紐状のものは自殺をする恐れがあるから一切持ち込み禁止。衣類は囚人服に着替えさせられるわけではなく私服がそのまま許される。
 この辺りは留置場と同じで、まだ起訴もされていない被疑者であるため、服役囚とは区別されている。

 驚いたのは歯磨き粉で、練り歯磨き(歯磨きクリーム)は持ち込み禁止(現在は認められている)で、許されるのは箱入りの歯磨き粉だけ。その時代でも市場に出回っているのはチューブの練り歯磨きで、箱入り歯磨き粉を探す方が難しいし、粉状の歯磨きを使ったことがない人が大半だろう。
 それなのに何故と思うが、理由は粉か練り物かということではなく容器の問題らしい。当時の歯磨き容器は現在のように柔らかいチューブ式ではなく金属製であったため、自傷、他傷の凶器に使われる恐れがあるということだろう。

 だが、そんなもの近年見たこともないし、それしかダメと言われても持ってない者は歯磨きが出来ないのかと思っていると「刑務所の売店で買える」と言われ驚いた。
(へー、こんなところにも売店があるのだ)
 といっても売店に出向いて自分で購入できるわけではなく、刑務官に頼んで購入してもらうわけで、支払いは所持金から差し引かれる。
                                (後)に続く
 


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