N の 憂 鬱-11
  〜転学部して哲学に進む(2)


▽他学部から5人が哲学に進む

 Nが転学部して哲学に進んだ年、哲学科に進んだのは8人と多かった。哲学科は例年、数人が進級する程度で、中にはたった1人という年もあるなど、お世辞にも人気がある学科とは言えなかった。哲学・倫理学と宗教学、それに社会学と心理学を加えて1つの学科を構成していたから、各分野に学生が1人としても最低でも5人は欲しいところだ。でなければ学生より教官の方が多くなり、ゼミすら持てない教官が出てしまう。
 これでは困る。困るのは大学側だけでなく教官連中も同じで、暇を持て余すことになる。講義があろうとなかろうと同じ額の給料が貰えるなら、自分の研究に没頭することもできるし願ったり叶ったりではないかと考えるのは素人で、受講する学生がいないのは教える側にとっては張り合いがないのはもちろん、恥でもある。学生に「あの先生の授業は面白くない」と評価されているようなものだから。
 確かに過去にはニーチェや漱石のように学生に不人気な教授もいた。特にドイツの哲学者ニーチェの講義は不人気で、学生が一人も集まらなかった年もあったという。ドイツの大学は学生数で教授の報酬が決まっていたから、受講生が1人もいない年は収入がなくなるわけで、教官にしてみれば死活問題だ。だから講義内容も工夫する。

 ところが日本の大学、中でも国立大は受講生の多少で給料が変わるわけではないから講義や授業を工夫しようという気が教官連中にない。大講義室に学生を集め、マイクを使って一方的に話すだけのマンモス授業を行っている私立大の講師などは90分という自分の持ち時間だけを過ごせばいいと考えている。
 こんなものは授業でも講義でもなんでもない。学生達も学生達で単位欲しさに出席しているだけで、講義をまともに聞いていない者もいる。
 こうなると自分達は産業構造の一歯車として社会に押し出されるだけの存在なのかと思うのも当然で、ロボットがある時、知識に目覚め反乱を起こすのは映画の中だけではない。
 「自己否定」である。歯車になることを否定しただけでなく、自分はいかなる存在なのか、敷かれたレールの上をこのまま走るだけでいいのかと深く内省し、いや、よくない、今の社会はどこかおかしい、このままそのおかしな社会構造の中に組み込まれていいのか、間接的にであれ戦争に加担する側に付きたくないと学生達が考えだしたのは当然だろう。

 それでも地方の大学ではまだそこまでの問題意識は共有されてなく、Nにしても、己に如(し)かざるものを友とするなかれで、もっぱら先輩達と行動を共にしていたが、変わらないのは教官の方だった。相変わらず昔のノートを引きずり出し講義をしている教授もおり、先輩達から「A教授の試験はここから出るから」と言われる始末。
 だからNはA教授の倫理学の授業は一番後ろの端に隠れるように座り、他の哲学書を読んでいたが、何分人数が少ないから大勢の中に身を隠すわけにはいかず、どうしても目に付く。無視して欲しいという願いは通じず、教授が当てる。
「N君、サルトルの実存主義はこういうことですよね」
 当時、Nはサルトルの実存主義にのめり込んでいたから、いきなり尋ねられても当たらずと言えども遠からずぐらいの返答はできたが、教授が学生に訊くかと腹立たしく、いくら専門が倫理学だとはいえ一応教授なのだし、自分の授業で学生に訊いてどうするんだ、出欠さえ取らなければこんな授業に出はしないのにと腹の中で毒づいた。

 哲学の授業で出欠を取るのはA教授だけで、小森教授のゼミ学生を中心に不評だった。
「出欠なんか取らなくても講義が面白ければ学生は参加する」
「高校生じゃあるまいし出欠を取るなんて。問題は出席日数ではなく中身だ」
「試験は廃止し、レポート提出に替えるべきだ」
 彼らは口々に不満を訴え、学科「改革」を口にし出していた。
その後、新任教官の選任が非民主的に進められたことが学生達に伝わり、哲学科内部の改革を巡る運動が全学的な動きとは別に起きていくが、それは少し後である。

 例年数人だった哲学科の学生が一気に8人も進級してきたものだから、今年は何人来てくれるだろうかと悩んでいた教官達は大いに喜び、哲学教室は急に活気づいた。しかも8人の内5人が工学部、農学部など理工系からの転学部生。その内4人と、文系からそのまま進級した1人を加えた5人が何らかの形でマルクス主義に触れていたし、その時すでに四回生だった転学部生もいるなど、その年の学生は異色揃いだった。
                               次に続く


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